毎年8月になると、サイレンの音が響く中で手を合わせて一生懸命に祈ったことを思い出す。
皆の体温がこもる、蒸し暑い、体育館の中で。
騒がしかった皆が静まり返る。聞こえるのはサイレンと蝉の鳴き声。
額を流れる汗に混じる涙に気づかれぬよう、こらえながら。
「どうか、どうか、安らかにお眠りください。二度と、あんな戦争を起こすことはしません」

戦争を体験した世代のその声を、思いを語り継ぐ責任がある

学校の帰り道、足取りは重かった。
被爆者の話、原爆映画、原爆被害を訴える写真。
考えれば考えるほど苦しく、騒がしい男の子にムカついた感覚も鮮明に覚えている。
私は、人に言わせれば「ちょっと変」だったのかもしれない。

戦争と自分。
昔も今も自分が戦争や原爆に執着している理由はわからない。
でも、確かなこと。
それは私達が身をもって戦争を体験した世代の話を直接聴ける最後の世代であること。
そしてその声を,思いを語り継ぐ責任があること。
だから私は、私の戦争体験を書く。終戦から75年以上も経った戦争体験だ。
それは2020年を生きる23歳の「戦争・原爆」を通した経験の記録である。

原爆は「昔」の事ではない。この話に終わりなど来ない

長崎は私の出身地だ。
港町で江戸の鎖国時代も出島を通して世界と繋がっていたので、中国、西洋、そして日本の文化が交じり合う独特の雰囲気がある。
坂が多いのがちょっと難点。でもそれも長崎っぽくて気に入っていた。

でもこの街には忘れられない記憶がある。
そう、原爆だ。
75年前、この街は消えた。光と音の後に、爆風と、熱と、放射能と黒い雨と。
今後70年は草木が芽吹かないと言われた。
長崎は、そんな街でもある。
これは「昔」の事ではない。この話に終わりなど来ない。
今日も原爆の後遺症で苦しむ人がいる。この瞬間も人類は戦争、核兵器と決別できずにいる。

長崎では、原爆が投下された8月6日、9日に平和集会の為に登校する。
夏になると戦争や原爆を伝える様々な催しがある。私の小学校でも写真展があった。
焼け焦げ、顔の判別もつかない人。皮膚がただれ、消えた街の残骸を前に呆然と立ちつくす若い女性。既に息を引き取った幼い弟を背中に括り付けたまま、口を真っすぐ結んで立つ小さな男の子。私の胸には彼らの姿がはっきりとある。
忘れることなど、絶対にできない。

長崎の多くの図書館には児童向けに「戦争・原爆コーナー」がある。私はそこの本を片っ端から読んだ。『はだしのゲン』は授業と休み時間の境界がわからないくらいに没頭した。『きけ わだつみのこえ』を読んだ後の涙で赤く腫れた目に母がぎょっとしていた。原爆資料館には両手では数えるには足りない位足を運んだ。
だから私は当時、平衡感覚を失っていた。それが必要なものかは別として、日本を戦争被害国だと思い込んだ。アメリカに対して複雑な気持ちを抱いていた。

長崎であの日、何が起きたのか。私が伝えないで誰が伝えるのか

大学生になった私は、戦前から続く日米関係のプログラムに参加した。沢山の素敵なアメリカの友人ができた。だけど、1日、忘れられない日があった。
彼に悪意はなかったと思う。でも許せなかった。
「どうして日本には太った人が少ないと思う?ファットマン(太った男、の意味。長崎に投下された原爆の名称)が70年以上前に全滅させてるからね!ハハハ」
耳を疑った。全然面白くない。悲しみと怒りでぐちゃぐちゃになる気持ちとは裏腹に言葉が出なかった。見上げるくらい大きなアメリカ人に英語で何を言えば良いのかわからなかった。

その日の夜は、誰とも話せなかった。眠れなかった。悔しくて涙が止まらなかった。「本当にこのままでいいのだろうか」そんな気持ちと「だから、どうするのか」という気持ちが交互にやってきた。
明け方になって、決心がついた。長崎であの日、何が起きたのか英語で伝えよう。私が伝えないで誰が伝えるのだろうか。
それから急いでプレゼンのスライドを作って朝の8時半に皆の前に立った。70人の視線が私に注がれる。緊張した。でも一所懸命、何が起こったのか一人の人間として伝えた。
そして最後に、「戦争にも原爆にも色んな考え方がある。でも、あなたの言葉を聞いた人が深く悲しむ可能性があることも忘れないでほしい」と添えた。

終わった瞬間に涙をこらえる沢山のアメリカ人に抱きしめられた。
「伝えてくれてありがとう。本当に感謝している!」
何よりも驚きだったのは昨日の発言をした友人が泣きながら、
「自分の事だと思った。申し訳ない。でも本当にありがとう」
といってハグをくれたことだった。

沢山の情報を吸収して、改めて歴史に正解はないと実感した

1年後の夏、私はワシントンDCの国立アメリカ歴史博物館にいた。
アメリカの視点で描かれる「第二次世界大戦」そして「マンハッタン計画」の展示が並んでいた。視野が広がると同時に、壊れていた私の平衡感覚が少し戻された気がした。
マンハッタン計画に従事した人、それを支える倫理…沢山の情報を吸収して改めて歴史に正解はないと実感した。1年前の彼の発言の背景が少し見えた気もした。

その後、アメリカだけでなく世界中で沢山の情報や意見に触れる機会をもらった。第二次世界大戦下での日本軍の行動を非難されたこともあった。日本は戦前・戦中の行いを謝罪しないのか、と何十歳も年上の外国人に問い詰められたこともあった。
その一つ一つの言葉を聴き、受けとめ、じっくり話しこんで自分の視野を少しずつ広げていった。

「戦争」「原爆」と向き合うことを放棄してはならない

全ての経験を振り返って、思うことがある。
「戦争」も「原爆」も無数の事実と、数えることができない思いを含んだ言葉だ。
平衡感覚、という言葉を何度か使ったけれども「戦争」「原爆」に対する意見に正解が無いように、間違ったものも無い。平衡も存在しない。
だからと言って、向き合うことを放棄してはならない。
むしろ、よく聴き、理解し、考え続けなければならない。
私が、歩みを止めない限り「戦争」も「原爆」も過去の遺産ではない。
あなたが、歩み続ける限り、未来へと繋がっていく。
「戦争」「原爆」を通した全ての経験は、私に物の捉え方と考え方の多様性と使命を与えてくれた。

原爆投下から、そして終戦から、75年。サイレンが鳴り始めた。戦後100年になった時、どんな世界を生きていたいか考えつつ目を閉じる。今日も、あの日と同じように蝉が鳴いている。