社会人になって3年目、地元を離れて7年目。
私は現在、地元と同じ県内に住んでいるがここから地元は近いようで遠い。帰るにはローカルの単線路線で約1時間の小旅行になるし、1時間に1本の電車を逃せば寂れたホームで待ちぼうけをくらうことになる。もはやおじいちゃんおばあちゃんすらいない無人の駅は、私が知る風景ではない。駅前の通りも寂れ、子どものたまり場だった駄菓子屋さんもずいぶん前に閉店した。

この地域独特の閉塞感が大嫌いだった

私が子どもの頃にはすでに少子高齢化や若者の流出が問題になっていた。仲良くしてくれたお兄さんも出て行ったきり、私が大人になっても帰ってきているのを見たことがない。そういうわけで、子どもの頃は地元に愛着を、というような課外授業をたくさん受けた。たしかに興味深くて、面白かった。しかしだからといって地元に残ろうとは思えなかった。この地域独特の閉塞感が大嫌いだった。

近所の人々は何代も前からこの集落に住んでいて、つながりが強い。当代から住み始めた私たちには少し馴染みづらい環境だった。中には親切な人もいたが、私たちを良く思わない人も多く、寄合にてナメたことを言われたりされたりすることもあった。その度に父が抗議に行ったりもした。私の父は、売られた喧嘩は買う男だった。しかし私にその度胸は受け継がれず、ただひたすらに目立たず息を潜めていることしかできなかった。

きっと地元に帰れば好きなことはできなくなる

そんなこんなで私は近所に良い印象はないが、一方で同級生とは良好な関係を保っている。彼らとまた楽しくやれるなら近くに帰ってくるのもいいな、と思うが、やはり閉塞感がまとわりつく。

きっと帰れば好きなことはできなくなる。仕事、遊び、その他いろいろ。物理的にも社会文化的にも、今の生活を続けにくくなるだろう。それに、新しくできた友達や仕事仲間とも簡単には会えなくなるだろう。地元に帰るということはそういうことで、私はそれに閉塞感を見る。

地元に感じる寂しさは、好きな気持ちの裏返しなのかも

無人駅に立ったときのもの寂しさは、私が地元を好きな気持ちの裏返しなのかもしれない。だけど心のどこかで仕方ないと思う自分もいる。手入れする人が居なくなった草むらを、荒野と化した元・畑を、空き地利用とかなんとかで人よりソーラーパネルが増殖し始めた地元の風景をみると、思い出がどんどん霞んでいく気分がする。

しかしそれを私にはどうすることもできないし、どうにかしないととも思えない。こんな身勝手な思いを抱いてしまうのは私がまだまだ子どもだからなのかもしれない。こんなことを思うようになってから、地元の景色がとても切なく見えてしまう。