大学に入ってからもう4年目だが、何をするにもやる気がでない。頑張ろうと買ったばかりだったはずの英文法の参考書も、漢検や英検の参考書も古ぼけてしまった。卒業論文やエントリーシート、SPIや一般常識の勉強、ポートフォリオだってある。しかしやる気が出ない。やる気に満ち溢れていた高校時代までが嘘のようだ。否、私のやる気はそこで途切れてしまったのだろう。高校時代に頑張ったものは何一つ報われなかったからだ。

合否判定は振るわず、応援団ではミスだらけで、陸上も怪我に悩まされ

三年間行きたかった大学の判定はいくら頑張ってもD判定。夏休み中見本を血眼で見つめながら練習した応援団の演舞も当日はミスだらけ。陸上も怪我と病気を繰り返す始末。

自らの無力に苛まれる際、母に言われた言葉の数々を思い出す。

「進学校に行けることに感謝しろ」
「大学に行けることに感謝しろ」
「私は高校も選ばせてもらえなかったのに」
「それなのにあんたは勉強もしないで何してるの」
「周りはあんなに優秀な上あんたより頑張っているのに」

私にはその声が苦痛だった。部活で疲れ家でできない分、学校では頑張っているのに。クラスメイトは今でも私に「高校の頃すごい勉強してたよね」と言うほどなのに。たまに「勉強してるくせに頭悪かったよね」とまで言われるのに。なんでそんなに言われなければならないのだろう。そして実際、志望していた大学には合格どころか受けることもできなかった。浪人したいと訴えたが、うちにはお金はないし、浪人はあんたには向いていないとさせてもらえなかった。大学四年になった今でも、浪人していたらどうなっただろうと思い返すことはしばしばある。

「どうせ努力しても報われない」という無力感。どう乗り越えるか

最近になって、「学習性無力感」という言葉を知った。過去に経験した挫折や失敗によって、全てのことにおいて無力を感じ、努力できない状態のことを指すのだそう。これをどう乗り越えるか。再び努力をして報われる経験が必要なのだろう。だが、そう思って取り組もうとしても嫌な思い出が脳裏に浮かぶ。

同時に、私はよくこう言われることが多いように思う。
「他人のことを気にしすぎ」
確かにそうだ。私は基本、誰かのために努力することが好きだ。以前まで勉強を頑張れたのだって、学年1位を取って母から褒められたのがうれしかったから。陸上だって、自分の走りでたくさんの人の心を動かせるから好きになった。友人への誕生日プレゼントも、自分では買ったことのないブランドコスメを用意する。私は誰よりも、他者の喜ぶ顔が好きなのだろう。

それなら、自分のためにしていることは何もないのか。思考をそちらに巡らせてみた。ない。こうしてまた、無気力を感じた瞬間だった。電流が走ったように思い出した。私は文章が好きなことに。

自分のために唯一していることは、本を読み、文章を書くことだった

幼い頃は、ひたすら本を読むだけだった。本は私にとって、ドラえもんのひみつ道具であるどこでもドアのような存在だった。本を開くだけで、登場人物になりきって色んな世界へ行ける。そう考えていた。のちにビジネス書や実用書を読んでいると、自分を高めようと思える。他の誰でもない「自分」を。嫌なことがあって心の波が荒れても、無心で文字を追うだけで気持ちが凪いでいった。

友人らの助言を受け、つい最近自ら文章を書くようになった。新聞のコラムを読んだり日記をつけたりすることから始まり、今やブログやnoteにまで及んでいる。私の言葉で誰かが救われたらと思うと同時に、いやそれ以上に、私自身が救われていることに気が付いた。

文章を書くこと。これは「考える葦」と言われる人間なら誰しもできることだ。しかし、私の感情や哲学を言葉にできる人間は、もちろん私しかいない。幼い頃から培ってきた文章スキルを最大限に発揮する場。つまり私の最大の武器である。私にとって文章を書くことは、あまりに身近すぎた。だからこそ、その存在に感謝し、もっともっと文章を書いていきたい。それで自らのみならず、他者も救えたら。そうすることで私の「学習性無力感」が克服できたら。前のように頑張ることができたら。そう思って今日もまた、私は文章を書く。