私は今、助産師として性教育を伝える活動をしています。これを仕事として選んだのには、自身が自分の身体を労ることができなかった経験が深く関係しています。

性教育は人がその人らしく、その人の身体を健康に、安全に、心地よくあつかうことができるよう支援する教育です。私がその大切さを痛感するきっかけとなった摂食障害の話を、聞いてもらいたいと思っています。

自分への自信のなさからのめり込んだダイエット

大学2年生の頃、交際していた男性がスレンダーなモデルさんを「こんな人が好み」と話していたことをきっかけにダイエットを始めました。初めは定番の軽い食事制限と運動から。それでも元々ぽっちゃり体型だった私は、スルスルと減量していきました。

痩せるって、人に褒めてもらえるすごく簡単な手段ですよね。減量した私には恋人含め、たくさんの人が「痩せたよね」「綺麗になったね」と声をかけてくれ、元々自分に一切自信のなかった私は簡単にダイエットにのめり込みました。

少しずつ、でも着実に食事の制限を厳しくしていきました。最終的に自分で決めた1日にとっていいカロリーは500kcal。当時の主食は、しらたきとキャベツの千切りでした。

とにかく食事を拒み減量に励んでしばらくすると、時々制御不可能なほど猛烈な空腹を感じるようになりました。どうにももう我慢ができないほど強く「食べたい」という思いが湧いてくる。そして過食というものが始まりました。

パンパンのレジ袋2〜3個に詰め込まれた菓子パンやお菓子、お弁当やカップ麺など、普段我慢しているものを一度に全部お腹に詰め込む。そして太りたくないので自分で吐く。これが習慣になりました。「食べても吐けばいいんだ」と気付いてからは、とにかく我慢していた頃よりは辛さがマシになったようにも感じましたが、それは本当に一瞬のことでした。

世の中が求める「基準」に合わない自分を好きになれないしんどさ

食べたら吐く、というのが習慣づいてしまったら、それをしないことが辛くなりました。

友達とランチをしても、サークルの仲間と飲み会をしても、食べ終わったら「ちょっとトイレ」と席を立ち、吐きました。

友達と過ごす楽しい時間だった食事のお誘いは、少しずつ迷惑に感じるものになりました。

普段は自分が太らないと信じられるものだけ食べて、我慢ならなくなったら好きなだけ食べて吐きたい。そのリズムを誰かに壊されたくない。

そんな考えが頭から離れなくなった時、ようやく「私はもう一生食事を楽しめないのかもしれない」と少し危機感を抱きました。同時期に常温の豆腐が歯にしみるという経験をしたことで「身体の健康も失われていく」とさらに危機感を強め、ようやく克服に向けて歩み始めました。

「痩せていること=綺麗」というメッセージは世の中に腐るほどあって、その影響を受けずに大人になることはあまりにも困難です。その基準に合わない体形を持つ自分を責め、世の中に認められるような体形であろうと努力する女性はこの社会に山ほどいるし、私もその一人でした。

でも正直にいうと、自分で自分の身体を好きでいられないことはかなりしんどかった。私の身体と一番一緒にいるのは私なのに、私が気に入ることより世間の誰かに気に入られることばかりを優先して、自分の心地よさを犠牲にしているんです。そりゃ限界が来て当然だなと今となっては思います。

本当に自分を愛してくれている人は、きっと体形の変化は気にしない

YouTubeなどの発信活動を始めて、一つ明確になったことがあります。

それは一見普遍的に見える「美の基準」なんてものは、あまりにも主観的な評価であるということ。だって同じ動画をみたはずの複数の人から、「ブス」「デブ」「可愛い」「痩せた」なんて相反するコメントが届くんですよ。もちろんそもそも人の外見や容姿について言及してくるのはマナー違反ですが、それにしてもこんなにも人によって私の外見の評価ってブレブレなんだなと思ったら、見えない誰かの評価を気にして自分の心地よさを手放すことがいかに無駄なことであったかを実感しました。

私たちにとって一番大切なのは、今日もすこやかに心地よい自分で生きていくことです。

そしてきっと自分を本当に愛してくれる友人や家族や恋人は、体形がちょっと変わったくらいでは態度を変えません。そう信じられるようになったことが、私が摂食障害を克服できた大きな理由であると感じます。

誰かが決めたよくわからない基準に当てはめる前に、今いるあなたが心地よく生きるために必要なケアを考えていけたらいいなと思うし、誰かの心地よい生活に役立てるような仕事をこれからも誠実に届けていきたいと思っています。