まず、1番に思ったのは「SDGsって、なんですか?」ということだった。
このハテナは、SDGsそのものの内容についてではない。「あれ、エコ活動(地球温暖化問題への対策)じゃないの?」という点にある。
小学生の頃「私たちが頑張らないと地球温暖化が進む」と思っていた
私が小学校の頃は「地球が暖かくなっていって、オゾン層何やらが破壊されて状態も悪化するため紫外線何やらの害が増えてしまうのよ」といったニュースがテレビの中でたくさん取り上げられていたと思う。
当時は、それらの情報から極端な発想しか頭の中で描けず、エアコンを全く使わないようにコンセントをぶち抜いてみたり、ちょっとしか席を外さない部屋を照らす電気がもったいないとやたらON/OFFスイッチにばかり視線を注いだりしていた。私は、ほんとに極端な思考で行動へと即移してしていたため、家族に時々「エアコン入れなさい!こんなんじゃ熱中症になっちゃうよ!」など口を挟まれることもあったなと思い返す。「だって、私たちが頑張らないと地球が暑くなっちゃうんだよ!」当時の私は、心の中でそう家族に言い返していた。
この年になって、当時のように極端な環境ための行動をし続けると私自身が倒れてしまうってことがわかった。あとは、私1人の力だけでは、地球の温暖化を食い止めることは無力に近い微々たるものだということ。また、多角的な意見を吸収してきた。そうして色んな意見を知った上での、SDGsという存在の登場は、私にとってちょっと裏切られたと感じたものであった。
話は戻るが「地球温暖化防止のためのエコ活動はどこいったんだ」という心境。ちょっと裏切られた感があったにも関わらず、いやそういった感情を得たからこその動力になったからか、SDGsを身の回りで調べてみた。
結論は、従来のエコ活動に加え、人間同士の関係性であったりと項目が増えたものであるということだ。“項目が増えた”と、あるように結構なふとした日常でもSDGsに参画できてしまうようだ。
調べてみた総評。SDGs全項目をきちんと捉えて…といったことは、両立することが不器用な私にとっては荷が重い。そのため、私は従来のエコ活動のご近所さんくらいの範囲のことをささやかな地球への行動として進めていこうと思った。
無理のない程度に、地球に優しい「脱プラスチック」を始めた
前置きが長かったが、そのささやかな行動にプラスチックのことを挙げてみた。プラスチック製品を使う機会を少し減らす。プラスチックに代わる材料のものを選んで、生活に定着させていく。といったように、“脱プラスチック”の行動を選んだ。その中でも『蜜蝋ラップ』を知った時に、とても驚いたことがあった。「えっ、蜂蜜? 蝋燭?」 レンジ使用は溶けてしまうから不可能だが、ペリペリと使い捨てラップとは違い何度も使うことができるアイテムだ。
また、極端な私の考えではあるが「環境に優しくなった境地は、人間の口に入れても比較的平気な食べ物を使い出すのか」と思った。自然に返っていく感じなんだ。
けれど反面、“脱プラスチック”の行動をしていくと、いかに今までプラスチックに依存していたかということが身に染みてわかってくる。私の周りでは、ドライブスルーでランチを買えば、何かしらプラスチック製品で食品が包まれて提供されている。スーパーで買い物をする時に、マイバックを持参はするが冷凍物の氷を入れる袋までは持参しないため、スーパーの備え付けの小さな袋を使って氷を入れる。ここでも、プラスチックにつながっていくと、侵略されている感覚が至る所にあった。
「意識」を少し変えるだけで、地球の未来は良くなると思う
視野を広げ、世間のニュースではウイルス防止や衛生面への関心がどんと強まってレジ袋の廃止が一時停止。ある小学校では、熱中症予防のために、学校の廊下に無償の自動販売機が設置された。よって子どもたちは、マイボトルを持参する時とは違い、キンキンに冷えていて一人ずつボトルに入って新鮮な水を飲むことができるようになった。
といったように、“脱プラスチック”は、他の要因によって進度が難航している。もはや、今のご時世プラスチックとの絶交は、不可能なのかもしれない。それほど、当たり前に友好関係が世間だけでなく、私のちっぽけな暮らしの中でも結びついてしまっていた。
地球温暖化によるエコ活動が、いつの間にか私たちの暮らしの一線からフェードアウトしていったように、一種の“流行”みたいになっていってしまうのかもしれない。
けれど、世間の関心から忘れていったり薄れていっても、地球から見たら私たちの微々たる暮らしの日常で、一歩でも行動を続けることが何よりだと感じる。
私たちの“意識”を、ほんのちょっとだけ大きな地球へ向けることで、私たちの暮らしは地球の未来を少しは良くできる。そう頭の隅っこの方で“意識”しながら、また私の暮らしの日常へと戻っていこう。