ひとり暮らしが再開した。
11月末の土曜日にお酒を飲んだ先輩と、そのまま互いの下宿を行き来するように過ごしていた日々が終わり、彼の大学卒業とともに本来のひとり暮らしが帰ってきた。
「おかえり、ひとり暮らし。仲良くやっていこうぜ」くらいの軽い気分を装ったものの、そう上手くはいかない。ぎこちなく再開した一人の生活は外出自粛や大学の立入禁止の煽りを受けて、へたりと座り込んでしまった。

久々のひとり暮らしに、一人での食事に困惑した。

一番困ったのは、何を食べていいのか分からなくなったことだった。
実を言うと、前に過度な食事制限をして以来、一人で食事をすることが苦手になっていた。今より10kg痩せていたこともあったし、あまりに食べることが苦痛で友人に電話で泣きついたこともある。
それほど疲弊していた時期もあったけれど、緩やかなふたり暮らしの中では、食事も日々の営みの一部へと影を薄めていた。一緒に食べる相手がいれば自分が食べていることから目を逸らせたし、同じお皿の料理を分け合うことで私だけが食べているのではないのだと安心できた。
だから、久々のひとり暮らしに、一人での食事に困惑した。彼が置いていったレトルトや缶詰が無くなった後、店頭にずらりと並んだ食品から何を選んだらいいのか分からなくなった。何を食べても、食感がもそもそしているように思えたし、自分の咀嚼音がひどく耳についた。
外出自粛、講義開始延期、大学の立入禁止……と、一人での食事から逃げる手段も無くなった。あまりに食べるのが下手すぎて、しばらく低体温が続いたので、冬場の変温動物みたいにのろのろと過ごした。
罪悪感が増さないようにヘルシーに、体温を下げないように温かいものを食べるように心掛けた。誘惑に負けて甘いパンを買ったときは後悔し、できるだけ何も考えないようにして食べた。

オンラインだからこそ、関わる人が増えて見える世界が広がった気がする。

それでも、食べることがしんどい状態は徐々に和らいでいった。Discord(音声通話とチャットができるソフト)を使ったコミュニティやzoomの飲み会に繰り返し参加したことが大きいと思う。
遠くて行けなかった他大学のサークルや読書会にも行けるし、大阪にいながら九州や東北にいる人とも顔を合わせてお酒が飲める。ふたり暮らしの羽毛布団に包まれたみたいな安心感は無いけれど、以前よりも関わる人が増えて見える世界が広がった気がする。
誰かが積読を消化していると言えば、私も積んでいた本を読みたくなる。誰かが面白い映画があると言えば、私もみてみたくなる。誰かが個人誌を作っているのを見れば、私も作りたくなる。
頭の中が趣味でいっぱいになると、食べることは影を薄めはじめた。日に一度か二度、頭をもたげる空腹に対処するときだけ少し憂鬱になるけれど、それも映画やドラマをみながら食べてやり過ごした。

私を愛しむための食べ物たちは、すっと喉を通った。

そんな中、Twitterで「自愛」と称した食べ物の投稿を目にするようになった。なかなか収束しない事態を不安に思い、心を痛める人々が、コロナ禍を生きる自分のためにコンビニスイーツやアイスクリームを「ご自愛ください」の気持ちで食べているようだった。
私に必要なのはこれだと思った。
「ご褒美」ではなく「自愛」なのだ。頑張れ頑張れと鼓舞するのではなく、自分自身をそっと抱きしめてあげるような言葉でもって、食べ物を口にする。とても健気でやさしい食べ方だと思う。
今日、自愛と称してレモン水を作った。水菜の自愛鍋を食べた。自愛のクロワッサンを買ってきた。私を愛しむための食べ物たちは、すっと喉を通った。言葉ひとつで食べることが穏やかな行為に思えた。

しばらくの間は自愛のために食べようと思います。どうぞ皆さんもご自愛ください。