「そういう人」と割り切ることは冷たいことじゃない。もっと楽に生きよう
知性と品にあふれる筆致でありながら、「ちんぽこ ぽこ美」というペンネーム! なぜこんな「ふざけた名前」(本人)を名乗るのか。その答えは「若い時はこんな下品なことを言っちゃいけない、こうあるべきだと自分を縛ってきた。でも、年齢や経験を重ね、やっとその呪いがとけてきた。ぽこ美を名乗れることが、私にとっての自由の象徴」と話します。この連載では、ぽこ美さんがこれまでにかけられた、社会や自身による呪いを振り返りながら、いかにしてぽこ美という名の自由を手にしたのかをお話していきます。「こうあるべき」に苦しむ方たちの呪いをとくヒントがあるはず!
会社のデスクを整理していたら、過去のスケジュール帳が何冊も出てきた。
あまり積極的に見たいものではないけれど怖いもの見たさで広げてみると、そんなに何年も前のことではないのに黒歴史というか悲壮な叫びというか読み返すのも恥ずかしいようなことがたくさん書いてあった。
「部署的に仕方のないことだとは思うけれど毎回資料を作成しても鼻紙率が高すぎる」
「上司にフラッシュ(な意見・指示)が多すぎてムリ」
「同僚男性が大した成果もないのに自分より早く出世した」
「副業について、儲かりそうなアイディア」
(今見ると全然ビジネスとして成功しそうもない。インドネシアでシステマチックなラーメン屋?とか書いてあった。笑)
「離婚したい」
「幸せになる」
「幸せになりたい」
という具合に仕事のことや、上司・同僚のこと、恋愛関係のことなどを書き残していた。
特に「幸せになる」「幸せになりたい」これは自分でも怖いくらいに何回も呪詛のように書いていた。「幸せになりたい」ということは数年前、私は不幸せだったのか……考えたらちょっと胸が痛んだ。
特別な「何か」が起きたわけじゃないけど、「幸せ」を感じている
自分は今、とても充実感があって満足した生活をしており「幸せ」を感じることができている。
でも過去と比較してセレブな暮らしができるような臨時収入があったわけでも、美容整形してめっちゃ美人になってモテモテ&貢がれまくりなわけでもなく、特別な「何か」がここ数年で起きたわけではない。
自分の容姿や収入などのスペックを他人と比較することは、上を見てもキリがないし下を見てもキリがない。
相変わらず老後の人生は不安だし、ひとり親で子育てすることが子どもに与える影響も心配だし、来年の年俸査定だって、今作成している資料の出来栄えだって不安である。
けれど現状が、今の暮らしが自分にとってベストだと思えるようになった。
パートナーがいた時はよく「どうして彼は私の気持ちをわかってくれないのだろう」「どうして○○をしてくれないのだろう」そればかり考えていた。
以前はパートナーに対してだけではなく、会社でも社会においても自分は不利益を被っている、正当に評価されていない、女だから差別されている、運が悪すぎると他に責任転嫁していることが多かったように思う。
傷つけられることも、傷つくことも簡単だから
生きていると傷つくことがたくさんあって、理不尽に八つ当たりされたり、とばっちりを受けたり、差別にあうことがある。
すごく辛くて誰かに共感してほしくて「こんなことがあって……ひどいよね」と話してみれば「それってあなたのせいじゃない?」「あなたのこういうところが良くないよ」と追い打ちすらかけられることもある。人を傷つけることは簡単で自分も意図せず人を傷つけてしまうことがあるし、さっきの「あなたのせいじゃない?」と言った当人だってもしかしたら善意でアドバイスしてくれたのかもしれない。
そう、傷をつけられることも、自分が傷つくことも簡単なのである。
最近よく話題になる理不尽に怒鳴り散らすクレーマー気質の人というのは、もう「そういう人」であって、誰かに注意されてもむしろ逆上するだけ。そんな人は相手にするだけ無駄なので「もらい事故にあってしまった」「頭おかしいひとに遭遇してしまった」「よく意味わかんないことでそんなキレられるなぁ」とでも思って関わらない!通報!誰かに助けを求める!という人は多いだろう。
その対応はごく当たり前の流れなのだけれど、これが身近な人で怒鳴るわけではないのだけれど、自分のことを理解してくれない人だとしたらどうだろう?
パートナーでも友人でも自分とあわない、自分のことをわかってくれない、わかろうとしてくれない人に「わかって」と訴えて喧嘩して期待していた分、傷ついて泣いて、「でもこの人はいつかわかってくれるだろう」「いつか変わってくれる日が来る」と幻想を抱いていないだろうか。
もちろん最初からあきらめる必要はなくて人は言葉というものがあるから自分の考えを伝えディスカッションすることは大切だと思う。でも何度言っても、何度思いを訴えても理解されないこともある。そういう相手を思い待ち続けることって本当に勿体ない。
人は変われない。パートナーも、自分自身も
なぜなら人は簡単には変われない。それはパートナーも変わらないし、自分自身もである。
まさに「自分が変わってその人の全てを受け入れることができない」のが、その証明である。
だからやはり期待しても無駄なのである。期待して傷ついてしまうなら、極力自分が傷つかないように生きて行くほうが、きっと人生は楽しい。人に期待しないことは冷たいようだけど他人であるパートナーや友人・会社の関係者、そして血の繋がっている家族や子どもでも大切なことで、その人に期待するのではなく「あぁ、そういう人なのだな、自分には理解できないな」と切り替えて思うことで自分がもっと楽に生きられる。
自分自身、元夫は「そういう人」なんだな、と割り切り期待することをやめた。期待することをやめたら一緒にいる意味がなくなり別れることになった。結婚生活の中でどんなに、どんなに彼が変わることを期待しても変わらなかった。どんな手を使って、どんな話をしてみても彼は家庭を優先することはなかったし、チンコが勃つこともなかったのである。笑
「そういう人」と割り切ることで、自分自身の良いところにも目を向けられる
「そういう人」と割り切るというとネガティブに思われがちだけれど多くを求めないということは「コレについてはそういう人だけど、アレはいいところだよね」と違う良い面を認めやすくなるという効果もある。
この割り切りの一番大きい効果は自分自身についても「嫌なところもたくさんあるけれど、自分のこういうところはいいところ」思うこともできるということで、ひいては小さいことで幸せを感じやすくなれる合理的な考えではないだろうか。あなたは自分が思っているより、ずっと素敵でいいところがある。だから無駄に傷つかないで欲しい。
もっと楽に生きることも案外楽しいよ。
illustration :aketarasirome