女子力とgirl power、2つの言葉が持つイメージの違い
以前、日本語を勉強している友人のアメリカ人女性に、こんな疑問を投げかけられたことがある。
「日本語の女子力と英語のgirl powerって同じ意味なの?」
そもそもジェンダーに関して様々な議論が沸き起こっている中でこのような語を出すのも気が引けるが、とりあえず「女の子」とは「女の子でありたい人」という定義でこの話を進めたい。
ご存じのように、「女子力」はいわゆる「女子らしさ」を持つ女性を褒める(まれに揶揄する)ときに用いられる言葉であり、「girl power」は困難に負けず積極的に社会に出て活動する若い女性を励ます際の標語のようなものである。
両者の違いなどそれまで考えたこともなかったが、訳せば同じなのにここまで意味が異なる語というのも面白いと思った。
「女子力」と聞くと可愛らしい格好をして控えめにほほ笑む1人の女の子の姿、「girl power」と聞くと弾けるような笑顔、あるいはきりりと微笑む女の子5人くらいが戦隊ヒーローさながらのポーズをとっている姿が頭の中に浮かぶ。勝手なイメージだけど。
ありたい姿と「女子力」の間に感じる違和感。皆さんはどうですか
この2つの語の意味の違いは、各文化圏で女の子に求められる資質の違いを表しているように感じられてならない。
私は別に、日本文化を否定して海外文化を全肯定するようなタイプの人間ではないけれど、日本で暮らす女の子が小さい頃から「girl power」ではなく「女子力」という言葉を浴びながら過ごした際の成長後の姿は、「girl power」の語に馴染んできた女の子と比べるとどのように違うのだろう。
その子の在りたい姿と「女子力」という語がマッチしているならまだしも、違和感を感じながら過ごしている女の子も多いのではないか。「かがみよかがみ」に集う皆さんはどうだろう。
ちなみに私自身は「女子力」という語があまり好きではないので使わないようにしている。可愛らしいものが好きであることは、なにも女子の特権ではあるまいし、また人への気遣いや優しさといった内面的な部分は「女子力」というより「人間力」の問題だと思う。
どちらの言葉が良い悪いではなく、自分の意志で選び応援できる社会に
これらの語の意味以外の他の違いとしては、「女子力」は努力して身に着ける(表面的な)もの、「girl power」は全ての女の子が持つ資質であり、それを発揮できるかどうかが重要な(内面上の)もの、という感じではないだろうか。
そして前者は社会的圧力によって、後者は社会的応援によって女の子の中に芽生えていくものだと思う。社会の雰囲気の違いがこの2つの語に集約されている気がしてならない。
最近は「girl power」という語を耳にする機会も増えてはきたが、まだまだ「女子力」が優勢だろう。どちらが良いとか悪いとかはあえて言わないけれども、女の子が自分の意思で好きな在り方を選び、それを応援してあげられる社会になれば良いと願ってやまない。いや、していかなければならない。私たちの「girl power」で。このエッセイ投稿だって小さな力になりうるのだから。