「もう、絵を描くことをやめてしまおう」と本気で思ったことが、一度だけあった。2016年の春、大学を卒業する直前のことだ。
小さい頃からずーーっと絵を描くことが大好きで、絵にもらったワクワクや楽しさを、将来は与える側になりたかった。そんな作家になることを夢見ていた。
でも、もうやめようと思った。当時の心境は、今でもよく思い出せる。
「それって、私じゃなくてもよくないか?」
白いキャンバスを前に、心からそう思っていた。

自分を押し込めながら絵を描き続けた末の「決断」は

最初に「あれ?」と思ったのは高校生の頃。
「この絵の女の子、なんでこんなに太ってるの?」と2度ほど聞かれた。
自分は標準体型の女の子を描いたつもりだったのに。
「無意識に自分の身体を参考に描いてしまってるんだ」と気づき、「それはいけないことなんだ」と心に刻んだ。
だって可愛い女の子が描きたいのだ。無意識に、可愛くない自分の身体の線を反映しないようにしなければ。
ただの技術の話と言えばそれまでだが、絵を描く際の心構えと自己否定的な考え方は、摂食障害や自分の太った体に悩んでいた当時、切っても切り離せないものだった。
大学に進学した頃は絵本作家になりたくて、小さい女の子の大冒険とか、はちみつ工場で働く働きバチたちとか、小さい子でも楽しめるような、分かりやすくてわくわくするような物語を込めて絵を描き続けた。

一方で、「誰かを楽しませる絵を描くには、わたしという人間と作品を遠ざけるのが大事なのだ」と思って絵を描くことが多くなった。
太った身体、摂食障害、自分の暗い悩みやコンプレックスをいかに隠せるか。
わたしの絵を見た人に、いかにわたしの輪郭を悟らせないか。
それは作家としてあるべき姿、持つべき心構えだと、強く思い込んでいた。
そんな考え方は、絵を描けば描くほど心をじわじわと蝕み、ついに限界を迎えたのが、大学4年の卒業制作でのことだった。

私が自分の内面を押し殺し、捻り出すように生み出す絵。
あれ、でもこれって、私じゃないと描けないようなものだろうか。

就職活動期ということもあり、作品集を持ち外に出ると、私より細くオシャレなひとたちが、私より上手くてキラキラと楽しい絵を描いていて、みんな私より可愛くて美しかった。
卒業制作でも絵本のような楽しくワクワクする一枚絵を描くつもりだった私は、白い紙を前に、なにも浮かばなかった。
私じゃなくてもよくないか?という考えは、気力もアイデアもすべてを枯らせてしぼませる。ストレスからまた過食と嘔吐に走る。
もうやめよう、これを描き終えたら絵描きを志す道をすっぱりやめる。そうでも思わないと、もう右手が動いてくれなかった。

「私じゃなくてもいい、それでもいいから描きたいもの」を見つけて

わたしがまたペンを取ったのは、それから1年後の2017年夏。
『プラスサイズ』『ボディポジティブ』という考え方に出会ってからだった。

太っていてもオシャレしていいのだ、自分の身体を好きでいていいのだ。
この考え方を、同じ悩みを抱える人に知ってもらいたい。そんな思いを込めて、楽しく好きな服を着るプラスサイズの女の子たちを描はじめた。
『自分』と『作品』を、こんなにも直結させて絵を描いたのは初めてのことだった。
自分の太い腕や足や輪郭。コンプレックスを遠ざけるどころか、すべて参考にして線を引く。絵そのものは、やっぱり誰にでも描けそうな仕上がりだった。
それでもよかった。
誰にでもできる、だからこそ私もしたい。
そう思って、黙々と描き続けた。

それから3年が経って、2020年秋。
少しずつ、イラストや漫画の仕事をいただくようになった。
「わたしの絵を見た人に、わたしの輪郭を悟らせないように」という昔のモットーとは真逆の絵を描いているのに、ありがたくも依頼をいただいている。正直、不思議な気持ちになることがある。
こんなに自分のことばかり描いてるのにいいのかな…と現実感が沸かず、気持ちが追いつかないこともあったが、戸惑う間もないほどに暖かいメッセージを山ほどいただくことが増えた。
「私も見た目に悩んでいました」「元気をもらえました」「ありがとう」と。
『私じゃなくてもいいからこそ』と思って描きはじめたけれど、『私だから』描けた何かがあったのかもしれないと、仕事をいただくたび、それに対する優しい感想などをいただくたび、少しずつそう思えるようになってきた。

心揺らいだときに思い返すのは「誰かが楽しい気持ちになれる絵を」

それでもたまに、絵を描く手が固まりそうになる時がある。
そんな時は昔の自分をイメージし、彼女に向けて呼びかけるように描きはじめる。

ボディポジティブって考え方があるんだって。
どう?
可愛いと思わない?
もう女の子の腕や足やお腹を、何回も何回も描き直さなくていいんだよ。
肉のたるみも二の腕のプツプツも、見覚えのあるままに描いていい。

誰かが楽しい気持ちになれる絵を描きたい。その夢は昔から変わっていないけれど、今はその『誰か』に自分も加わっている。
呼び掛けても返事は返ってこないけれど、そうすることで今日も右手は動いてくれる。