大学4年の秋、ひと足早く卒論を書き終えた私は、余った時間で韓国へ留学をした。
当然ながら知り合い一人いない、言葉も通じない場所で、少しでも現地人との交流を図ろうと私は、ソウルで行われる日韓交流会で、イベントの手伝いをすることにした。

たくさんの友達ができた。そして、そこで出会った一人の大学生に恋をした。背がすらっと高く、ゆっくりとふんわりと話す、優しく不思議な雰囲気を持つ人だった。何度か会う機会を重ね、ちょうど3回目のデートで溢れた思いを打ち明けた私に、彼が言った。
「軍隊に行くから、ごめん。」

彼の言葉や態度から、少なからず私に好意を抱いていることは感じ取れた。お互い好き同士なのに、どうして。兵役制度のことをよく知らない日本人の私にとっては、軍隊に行くことと、お付き合いができないことが、どうして結びつくのかよくわからなかった。

兵役中の彼と会える機会は、数カ月に一度の休暇や週末の面会だけ

韓国の兵役制度について、何も知らなかった私は、交流会でできた韓国人の友人たちに彼とのことを相談した。彼らの言葉はすべて同じ。「軍隊に行く前の男と付き合うなんて、馬鹿だ。」の一言だった。(すべての韓国人が同じ考えだという事では決してなく、あくまでも私の周囲での考えである。)

韓国では、<北>との戦争が未だに続いている。いつ、再び戦争が始まっても何らおかしくない。その為、男性には兵役が義務付けられている。韓国の兵役は約二年間。自身の配属される部隊にもよるが、基本的に入隊すれば数カ月に一度の休暇や週末の面会のみでしか外部の人間と会うことはできず、私の留学当時は携帯電話の使用は困難で、主な連絡手段は備えつけの電話や文通であった。

結局彼とは、私が日本に帰国するまでの間、1度面会に行ったり、備えつけの電話や文通で何度かやり取りをした。スマートフォンが当たり前に使用される現代において、文通や時間の限られた電話をするという経験、パスポートを入り口で預け面会に行くという経験は、きっとこれからも、あれっきりだろうと思う。

大事な人が戦争に行ってしまうような未来は想像できない、したくない

いつ戦争が始まってもおかしくはないと言っても、どうも現在の韓国での兵役制度は、立派な男になるための<通過儀礼>と化しているように私は思う。事実、軍隊で2年もの間、決して快適とは言えない環境下での集団生活は、青年たちを少なからず成長させるのだという。彼らの戦争へ行くことへの概念がなまっている、薄れているという意味では決してない。ただ、私が感じるのは、家族や友人、恋人、自身の大切な人と思うように会えず、寒く、暑く、苦しい状況下で2年間耐え過ごすことがいつの間にか<通過儀礼>という認識となっていることの異様さである。

更に韓国の兵役制度は、2年過ごせば終わりというわけではなく、除隊した後も、予備軍という名目で定期的に召集がかけられ、訓練が行われる。今、<北>との戦争が再び起これば、私の友人たちも、あの彼も、戦地へと向かうことになるだろう。大切な人が戦争に行ってしまう、そしてそのまま、帰ってこないかもしれない。今の私には、いくら想像しても想像しきれないことだ。でもその、<想像できないこと>こそが、きっと今まで、私が平和な時代で守られ育ったことの証なのだと思う。私はただ、これからの私自身にとっても、私の未来の世代にとっても、それが<想像できないこと>のままであってほしいと切に願う。そして韓国の<通過儀礼>も、いっそ<通過儀礼>のままであってほしいと、彼からもらった手紙を時折読み返しては、そう願うばかりなのである。