私は受験をことごとく失敗してきた。失敗、とは第一志望の学校に入れなかったという意味でだ。
精神的なダメージが一番大きかったのは高校受験に失敗した時だった。なぜなら第一志望校から補欠合格の連絡があり、繰り上げ合格すれば入学、繰り上がらなければ不合格という淡い期待を捨てきれない宙ぶらりんの状態だったから。
3月を迎え、卒業式を過ぎても、繰り上げ合格の電話はついに鳴らなかった。
進学先がなかなか決まらなかった私を、遠く離れた祖母はずっと気にかけてくれていた。
だから滑り止めの高校へと進学を決めた時、祖母へ報告の電話をした。
その時の私の声がよっぽど沈んでいたのだろう。祖母は電話口でしきりに「どんな場所でも勉強は出来る」「学ぼうとする姿勢を忘れないで」「あなたは賢いのだから、いつまでも不貞腐れず、周りを気にせず勉強しなさい」と慰めるように優しく、そしてまた励ますように力強く言葉をかけてくれた。
けれど私は、祖母の励ましの意味も勉強ができることの有難みも分からなかった。「でも……」と思わず言い訳が口から出そうになるのをぐっと堪え、「わかった」と電話を切った。
10代を戦時下で過ごした祖母の、「もっと勉強したかった」の言葉
祖母は1928年、昭和3年生まれだ。第二次世界大戦が始まったのが1939年、終戦を迎えたのが1945年。祖母は、おおよそ中高時代に当たる11歳から17歳までの6年間の日々を戦時下で過ごした。
だからだろうか。耳にタコができるほど“学べることの有難み”を私へ説いたのは。
学校生活の話になると決まって祖母は「女学校へ行きたかった」「もっと勉強を続けたかった」と何度も何度も繰り返し話した。
受験に失敗し、やさぐれていた私は学校へ行きたい気持ちなんてとても湧いてこず、祖母の言葉を右から左に聞き流していた。
生命の危機に脅かされる心配なんてこれっぽちもなく、当たり前のように学校へ行き、勉強できることの幸運に気が付こうともせずに。
平和な時代に、当たり前のように教育を受けることの有難みに気付く
志望校への未練もずいぶんと薄らいだ夏休み。祖母の家で三角に切ったスイカを頬張っているとまた学校の話になった。
「なんとかやっているよ」と言うと、祖母は心の底から安心したような顔を見せ「勉強ができるうちにたくさんしなさい」「おばあちゃんは学校へ行きたくても戦争で行けなかった」といつもの調子で話し始めた。
だけどその時は、今までとは少し違った。
祖母の言葉は右から左に流れていかず、私の胸の真ん中にちゃんと留まった。
テレビで原爆の特番を見たからか、終戦という言葉をあちこちで耳にしたからだろうか。それとも普段とはどこか違う祖母の弱気な声色のせいだったのだろうか。
受験には失敗したけれど、私は受験するチャンスも、進学する選択も、何不自由なく選んでいた。
「平和な時代に、義務教育を終え、さらに教育を受けることが出来ている」
当たり前で、でも本当は貴重な当たり前を初めて意識したのだった。
今は女性でも男性でも、誰にでも均等に学びの機会が与えられている。大学進学する人も決して珍しくはない。
しかし戦時中、祖母は女学校へ進学することは叶わなかった。そして60年以上経ってもなお、10代の頃の学びの機会が奪われたことに深い後悔の念を抱いていた。
だからこそ、祖母は私に学ぶ機会があることの尊さと有難みをしきりに説き、真摯に学ぶことを求めたのだろう。
戦争中、教育を受ける権利を奪われたのはきっと祖母だけではない。望んでも学ぶことが出来なかった人が、大勢いたはずだ。
これからも、学び続けることができる平和な社会を守りたい
終戦から75年。幸い、2020年の日本で戦争は起こっていない。
私たちのほとんどは義務教育を受けられるし、義務教育以降の教育を金銭面から諦めるより他なかった人たちに対する支援制度も拡充してきた。
戦争の為にではなく、学びの為にお金が使われる平和な時代で、誰もが学びたい気持ち、学び続ける機会を持てる社会が築かれ始めている。
私が戦争について考える時、“学べることの有難み”が頭をよぎる。そこに祖母の「本当はもっと勉強したかった、あなたが羨ましい」という羨望のまなざしと、人々から学びの機会を奪った戦争の影をみる。そして同時に、未来を生きていく子どもたち、私たちが学び続けることの出来る平和な社会を維持していく責任を強く感じる。
祖母が戦争によって諦めなければならなかった「学びの機会」、私がなんの心配もせず享受できた「学びの機会」。これからの世界でも「誰にも奪われることのない学びの機会」を当たり前の事にしていけるように。
真夏の日差しに照らされ、スイカを食べながら亡き祖母の言葉に今日も思いを馳せる。