スーパー美人の旦那が不倫をしたとき、Twitterに決まって流れる言葉「〇〇ちゃんでも、不倫されるんだもん、私なんか幸せになれるわけない」言いたいことはなんとなくわかります。

でも、スーパー美人じゃなくても、大切な相手からスーパー大事にされて幸せな人いませんか? 一途に想われてる人いませんか? そして、何よりその人自身が生き生きしてる人いませんか?
“美人=幸せになれる”、そんな方程式は成立しない気がするのです。

最近よく考える。結局私は、誰に「美しい」と思われたいか?

しかし、私は“人は見た目じゃない”というこの言葉にも違和感を感じています。対極にある言葉、“人は見た目が10割”。巷に溢れてる言葉。悔しいけど、嘘ではないのかもと思うことはしばしばあります。

私も小さい頃夢を見ていました。人は中身。いつか中身で判断してもらえると。そして男性の「たとえ君がブサイクだったとしても、君と付き合ってた」というよくある言葉も信じていました。でも、これも今となってはそんなことないよなと思ってしまうのです。

百田尚樹さんの作品に『モンスター』という作品があります。「モンスター」と呼ばれた主人公が、美容整形を繰り返し幸せになろうとする話です。綺麗になるにつれて周りの態度が一変してくる様子を実に巧妙に描いています。

私はこの作品を読むたび、美とはここまでの力があるのかと感心してしまいます。でも、でも、でも、私は私を諦めたくないと思うのです。人は見た目が全てといわれても。

最近、“美”について考えることがあります。特に考えることは、私は結局のところ、“誰に美しいと思われたいか”ということです。

渋谷にいるナンパしているチャラ男に「かわいい」と思われたいのか、それとも好きな人、はたまたクラスの全員、いやいや見えないInstagramの向こう側の人、やっぱり、自分自身?

私って「かわいいな」ってときめく気持ち、何よりも大事にしたい

お恥ずかしい話、私は長年繁華街でナンパされることが、美の基準だと思っていました。ナンパされない自分の市場価値はなんて低いんだろうと。劣等感の塊でした。たとえ声をかけてかけられても、かわいい隣の子しか見てないチャラ男。目さえ合わせてくれない。辛くて苦い記憶です。だから、今でも繁華街は苦手。ギラギラした男性の目が怖くて怖くて。

ただある時、ふと私は“周りからどう思われてるか?”を気にしすぎなのではないかと思うようになりました。天真爛漫に繁華街でキャッキャッとはしゃぐ友人を見て、この子はそんなこと考えず、今を楽しんでるのかもと思ったことがきっかけです。繁華街で歩いている時、どう見られているか、少しでもチャラ男に声をかけられたい、かわいく写ってほしいとそのことばかり考えてる私とは全く違っていました。

もしかしたら、チャラ男から声をかけられる美、その美って安っぽくて脆いような一時的なものなのではないかと考えるようになりました。結局のところ、自分は自分をどう思うかという気持ちが、何より大事な気がしたのです。

いつしか置いてきぼりにしていた気持ち。小さい頃、髪の毛を結んでもらって嬉しくて鏡ににっこり。私ってかわいいな。そんなトキメキを、今からでも取り戻したいと。

美は、自己満足でいいものなのかもしれません。人の気持ちはお金では買えないように、人から美しいと思われることもお金では買えません。というか、買わなくていいのです。

また、人から言われる「美しい」は、お世辞のことも多いです。本当のこともありますけどね。ただ、なにより自分が自分を美しいと思える。それが何よりの美だと思うのです。

私の考える美の定義。内面は空気を明るくできる芯のある女性。見た目に関していえば、姿勢が良くて、強そうな女性です。こう書いていると、美ってとても自由ですね。

私は、もっと自由に肩の力を抜いて「美」を楽しもうと思う

自分なりの美に近くために、最近YouTubeでエクササイズを始めてみました。半年後、少しでもお腹のお肉がなくなったらいいなと思っています。でも、別に誰かにお願いされているわけではないので、あくまでゆるくやりたいと思っています。

Instagramの見えない向こう側の人、渋谷でナンパしているようなキャラ男。私はその人たちに「いいね!」をもらうより、自分に「いいね!」を送れる人になりたいと思います。

もっと自由に、美を楽しむのもありかなって思います。肩の力を抜いて。美しくなることをゴールにすると苦しくなりませんか? 執着すると途端に美は姿を変えます。時に自分を傷つける凶器にもなります。

だから、ゆるりと美を楽しむ。美はあくまで自分の豊かさや幸せための一つの手段にすぎないと私は思うのです。