ここ1週間ほど、珍しくニュースを追いかけていた。
私は、来年結婚する。
私は私の名前のままでいられるのか。
自分が結婚することになり初めて知った「選択的夫婦別氏制度」
選択的夫婦別氏制度、夫婦がどちらかの姓に統一せず、それぞれの名字を使用し続けることを可能にするこの制度は、その導入の是非をめぐってたびたび議論されてきたらしい。
私は自分が結婚することになって初めてそのことを知った。
そして2020年12月はちょうど、第5次男女共同参画基本計画の閣議決定が出されるタイミングだった。新しい計画案に、選択的夫婦別氏制度の導入に前向きな文言が盛り込まれれば、実現は一気に現実味を帯びるらしい。
結婚して名字を変えるのは嫌だった。
でも、そういうものだから、と諦めていたのに。
気づけば、どんどん検索していた。議論の進捗は、連日様々なメディアで取り上げられていた。賛成派の原案を反対派が少しずつ削っていく様は、応援しているスポーツチームが敵チームからの攻撃に必死に耐えているように思えた。
夫婦別姓で検索すれば、制度に対する様々な意見を知ることができた。
導入に向けて活動している方々、旧姓との併用では限界を感じている方の体験談、公式マーク付きのキレッキレのコメント、反対派の主張、歴史の引用、折衷案を出す政治家のブログ、拡大解釈、棘のある言葉の数々…
様々な意見が同じフォーマットで混在している不思議。その中の一人になる勇気はまだもてず、真っ当な賛成派の意見に心の中でいいねをおしていた。
私もきっと、結婚したら姓を変える。それが普通だから。
不意に目に入った「導入には賛成だけど、実際に別姓を選ぶ女に普通のやつはいない」というツイートに、息が止まった。
私は過激なフェミニストなのだろうか?
自分の名前のままでいたいと思うのは、普通ではないのだろうか?
今までの人生で、何度自分の名前を書いただろう。
持ち物にも、履歴書にも、クレジットカードのサインにも、自分の名前を書いてきた。
漢字のバランスが難しくて、なかなかうまく書けなかった。
クラス分けが貼り出された時にはすぐ見つけた。
第一志望の試験の日にも、初めて家を借りた時にも、大好きな人への手紙にも、意を決して応募するエッセイにも、この名前を書いた。今までずっと一緒に生きてきた、私を表現する文字の並び。
一度、婚約者とは結婚したらどちらの姓にするか話し合ったことがある。
二人とも、愛着のある名字を変えたくなくて、最後はジャンケンで決めることにした。結果、私が負けたので、婚約者の姓を選ぶことになった。
でも、たとえ私が勝ったとしても、「冗談だよ、そっちの姓にしよう」と言ったと思う。それが普通だから。
置いていってしまう私の名前を、いつか迎えに行けますように。
第5次男女共同参画基本計画から「選択的夫婦別氏」の文言は削除され、閣議決定がされたいうニュースに、力が抜けた。
文言すらなくなってしまったなら、当分議論の進展は見込めない。
自分の名前で生きていくことは、法律で禁止されるようなことなのか。
反対派の政治家の勝ち誇ったツイートを見た。
なんだかとても虚しかった。
中学生の頃、好きな人の名字に自分の名前を合わせてはしゃいでいた、普通の自分はどこへ行ってしまったんだろう。
私は、今の私は、彼の名字になりたくないんじゃなくて、私の名前のままで、彼と結婚したかっただけ。
きっと来年までに、夫婦別姓を選べるようにはならないでしょう。私は結婚して夫の姓になり、今まで一緒に生きてきた名前は、どこかへ置いていく。
どのくらい先になるかわからないけど、いつか普通を超えられる日が来ますように。私のように不条理を感じることなく、結婚を迷いなく喜べる人が増えますように。
そして、置いていってしまう私の名前を、迎えに行けますように。