「A面のお前は好きだけど、B面のお前は好きじゃない」という訳の分からない、でもどこか核心をついたフラれ文句で、わたしは生き方を大きく改めることができた。
嫌われないよう、当たり障りのない「A面のわたし」ができるまで
思春期に足を半分踏み入れた頃に同級生から、2年ほどいやがらせを受けるようになった。子供なら誰とでも仲良くなれると思われがちだが、いまどき小学校高学年での転校(特に地方から上京する形の転校)は、ドラマ化されるママ友問題並みにハードでシビアだ。
グループを作るようなませたお年頃の女の子たちは、アウトサイダーにそう優しくない。無視や仲間はずれは、日常茶飯事。お弁当を一人で食べたり、ペアを作る行事でハズレくじのような扱いをされたりしては、トイレの個室で泣く日々が続いた。
ゼロから同じスタートを切ればこんな思いしなくて良くなると思い、学区外へ出るべく当時観ていた『受験の神様』というドラマの影響を受けて、受験を決意する。成績ギリギリで、第一志望に滑り込んだわたしは、念願叶ったことが嬉しくて、毎朝5時に起きて学校へ行くほど浮かれていた。
でも、この幸せも長く続くことはなく、再びどん底に落とされたのは、中間試験の結果発表だった。入学直後のクラス分けテストで3桁台をマークしたわたしは、退学を恐れて猛勉強をした結果1位を取ってしまった。そう、“取ってしまった”という恐怖だけが、今でも記憶に残っている。出る杭は打たれる文化はさることながら、人生勝ち組にいたことのなかったわたしは、1位を取った者の振る舞い方を知らない。また、疎まれるようになっていった。
それから毎日、お風呂でリフレクションをした。自分の良くないところを改善すれば嫌われないと盲目的に信じて努力した。1日の行動を振り返っては、相手に嫌な顔をされた行動は二度としないようプログラミングして、シミュレーションも重ねた。そうしているうちに、馴染みが良く、当たり障りのない、状況と環境に合った“何者”かを鏡の前で確認してからじゃないと、玄関を出られなくなっていた。
相手を気持ちよくするためのA面のわたしが誕生した。
元彼が「好き」って言ったから、わたしのB面をさらけ出したけど
元彼の言葉を借りるならば、“B面”とは相手にとって都合の良い存在であるために努力をしない面。すなわち、素の姿のことだと推測している。
人工知能のようにデータ蓄積を重ね、意思も感情も表情も反応もコントロールできるA面のおかげで、人付き合いが円滑になった。ささやかな日々の中で「好きだ」と言ってくれる人も増えた。だから、もっと完璧に愛される人になろうと努力した。醜いと思う部分は全部直して、理性的かつ穏便に、最小ダメージで物事を対処することに全エネルギーを費やした。
ついに、わたしから「好きだ」と伝えて受け入れてもらえるようにもなって、これまでの努力全て報われた気がしていた。そんな気の緩みが、勘違いを招いたのだと思う。「わたしに『好きだ』と言ってくれるのだから何をしても受け入れてくれるだろう」とB面をチラつかせたら、数ヶ月後には「A面のお前は好きだけど、B面のお前は好きじゃない」という言葉を投げつけられた。
A面は愛されて、B面は愛されないという法則は、そもそも御門違い
元彼の言葉を受けて、最初に頭をよぎったのは「やっぱり素のわたしは誰にも愛されないんだ」ということ。ただ、実のところは、“素のわたしを愛してもらった経験・実感が少ない”だけなのだ。
人に受け入れられなかったというショッキングな経験をした思春期から、愛される別のキャラクターを盾に長く生活してきた分、本性であるB面をさらけ出す経験自体が少ない。さらけ出すことが少なければそれを評価される機会も、理解される機会もA面より多いはずがない。好かれているか嫌われているかなんて、本来わかりっこないはずだ。
でも、いざこの二面性について、親友や懇意にしている先輩方と話してみると、彼らはわたしの二面性に気づいていた。さらに、『それを理解した上で、好きで、一緒にいる』と言うもんだからひどく驚いた。A面だから愛されて、B面だから愛されないというのは、そもそも自分の編み出した御門違いな法則だったことに気づくと、すーっと全身の力が抜けいていった。
理想像に対して、負の面を改めていくというのは悪いプロセスではない。ただ、それだけではダメだ。今ある良さを活かす方法を同時に考えることで、より生きやすくなる。自分に自信がなくなったら、ダメなところにばかり目を向けずに、隣にいる人が「素敵だ」「好きだ」と言ってくれている部分に目を向けることで、心を少しずつ豊かにしていけばいいのだ。