結婚しなければ、どうなっちゃっていたんだろうね。

小さな傷が増えてきた4年目の結婚指輪が、30代を目前に控える私へ問うてくる。自分を大切にすることが苦手な私は、おそらく人生の方向性すら決められないまま無駄に時間を浪費し、自分の可能性に賭けられないまま地元で腐っていたと思う。

結婚以外にも自分を豊かにするものはある。でも私にとっては

先日、地元の友人たち7名とのリモート飲み会に参加した。近況報告の段になり、私の番が回ってくる。年始に義実家へご挨拶に行き、非常に気を揉んだことを語った。
ふと顔をあげると、自分を含め8分割された小さい窓の向こう側で、実感をもって赤べこのように頷いてくれている友人と、笑顔を浮かべて静聴してくれている友人で、半分に割れていた。そこで、はっとする。

各自が何気なく話すことに、各個の人生の「多様性」が滲んでいることに気付いたのだ。ある人は熱心に漫画を描き、ある人は夫婦でバリバリ働き、ある人は跡継ぎとして店を手伝い、皆、それぞれの人生を奮闘している。並んで歩く学生だったあの頃と、わけが違うのだ。

私の話は、もうとっくに皆の共通した話題の一部じゃなくなってしまった。改めて実感として突き付けられ、途端にさみしくなる。気付けば、皆の合言葉だった「わかる」が、いつの間にか「そうなんだ」に置き変わっていた。私は友人たちを、掛け値なしに信頼しなくてはならないフェーズに来ているんだと痛感した。

活躍し輝く彼女たちを見ていて思う。結婚は絶対に、人生や価値観のすべてではない。すこし外に目を向ければ、自分を豊かにするものはあらゆる場所に潜んでいる。だけど、ふらふらして自分の行動に責任を持てないままだった私の人生において、結婚は、非常に大きな意味を持っていた。

私の知らない私を次々発見し、私の人生に沢山のマルをつけてくれた彼

結婚に必要な条件は妥協だと、よく耳にする。しかし私の場合、他人というどでかい軸を1本真っ直ぐ通さなくちゃいけないくらいが、かえって都合がついていい。真っ白なカレンダーに予定が入りはじめてからじゃないと、やりたいことも浮かんでこない。

私は大学卒業後、地元で福祉施設の職員として3年働いた。本当はライターとしてのキャリアに憧れていたけど、「どうせできない」と蓋をして、出版社にも新聞社にも、挑戦しようとすらせず、地元で腐っていた。
私に捨てられてしまった夢。自分すら見放したそれを拾い上げ、息を入れなおしてくれたのが、いまのパートナーだ。

彼は付き合いはじめてすぐ、それを知るやいなや、鼻息荒く私に転職を勧めた。面接の準備をしながら、私の知らない私を次々と発見し、ロクに自己分析すらしたことない私の人生に、沢山のマルをつけてくれた。できるから、やろう。できなくても、やろう。やりたいから、やろう。できるよ、できるよ。

難航する転職活動だったが、彼のおかげでくじけることはなかった。「一緒に暮らしたいからさ、早く転職先決めて都内に出てきなよ」と笑う彼に、結果で応えたかった。そんな一方で彼も、適応障害で休職していた会社を復帰したばかりの辛い時期だった。結局人間、自分のために頑張れなくても、ただならぬ他人のためになら案外頑張れるもんである。

その後なんとか就職先が決まり、そのまま彼の部屋に転がりこんで、東京での生活がはじまった。この出会いがなかったら。貯金もない腐った人間が、ひとり都内で誰にも頼らず新しい生活を始めるとなれば。突破しなくてはならない壁があまりにも多く高すぎて、また何かと理由をつけて得意の諦めを発動させ、楽で都合のいいほうになびいていたに違いない。そう考えるだけでぞっとする。

結婚の約束は、どん底の私たちの頭上で輝く、一本の銀の糸となった

私を独りでは絶対に乗れない轍へと乗せてくれた彼。最高すぎて27歳のとき、「お願いだから『結婚してくれませんか』と言ってくれ」と懇願した。復帰後しばらくして彼が再び体調を崩し、毎日布団のなかで希死念慮と闘いながら会社を休んでいる、そのさなかに。そして結婚という約束は、どん底に垂らされた私たちの頭上で輝く、一本の銀の糸となった。

結婚は、人生に無気力な私のセーフティネットだった。だから彼の家族になって、天から垂らされた銀の糸を手繰り寄せて編むことで、私も彼のセーフティネットになろうと決めた。手術のときはサインもできるし、交渉しなくても診察室に同伴できる。少し先を見れば、互いに喪主だってできてしまう。

自分を見失いそうな彼に、せめて笑いあえる毎日を贈りたかった。

しかし綺麗ごとだけでは済まされないのも結婚だ。この記事を読んでいるあなたが、もし結婚をしたいと、はたまた結婚がなにかわからなくなってしまったら、思い出してほしい。どんなに愛の素晴らしさを説いても、地続きの生活はどこまでも続いていく。生活を巡る様々な想定は、「くつがえったときに大怪我をしないための受け身のようなもの」でなくてはならない。期待は少量でも劇薬だ。

基本的に温厚な私たち夫婦だが、意見のすれ違いは、その期待感が引き起こしていることが非常に多い。目の前にいる生身の人間は、「自分の頭のなかにいるよく似たそれ」とは絶対的に違う生き物だということを、私たちも忘れないようにしたい。
暮らすということは、丸裸になって互いの凹凸すら丸ごと飲み込んで馬鹿みたいに笑いあうことだと思う。これは彼にマルをつけてもらうようになって、見えてきたことだ。

プラチナは不変だなんて嘘。結婚指輪には、二人にしかわからない小さな傷が無数に刻まれている。だからこそ愛しく、替えがきかなくなっていく。

スペイン語圏では、運命の人を“オレンジの片割れ”と呼ぶ。切り分けた果実の断面は唯一無二だから、そこにぴたりと合わさる相手はまさに、運命の人だと。

しかし私は自分の経験から、それに異を唱えてみたい。たった一つしか持てないオレンジを、分かち合いたいと思える人。その人を見つけたところからこそ、運命は始まるのだと。