D先生は、いつも仏像のような表情を浮かべていた。
高校三年時の副担任だった彼は、何かと私に干渉してきた。明るい色への染髪が否とされている校則の基で、黒に染めるならいいだろうと考えた私は、陽の下でさえ漆黒にみえるほど深く黒染めをした。時間が経って色が落ち、結果的に地毛よりも茶色い髪色になり果てた私をみて、D先生はここぞとばかりに私を呼びとめた。
「大島、髪が茶色いな。染めたか」尋ねられた私はことの顛末を語り、これはあくまで結果であって、故意ではない。むしろ黒髪に憧れてさえいるのだ、と説明した。すると彼は、「お前は当校の制服を着て、名を担っているに等しい。だから改めて黒に染め、ドライヤーなど色落ちの原因となる行為は控えるように」とお達しを下した。女子高生にとってはこの上ない不条理である。私はこの頃からはっきりと、彼を敬遠するようになった。

先生が私に告げた一言は私をよく見ていないと言えない言葉だった

それから数ヶ月が経ち、ある日の清掃時間のこと。
私は屋外の担当だったのだが、掃除もそこそこにぽつねんと立ちながらグラウンドに巻きあがる砂埃を眺めていた。すると、私のような不届き者がいないかと巡回していたD先生その人が、見兼ねてこちらに近づいてきた。私は慌ててホウキを動かし、掃いているふりをした。彼は私の目の前までやってくると、
「おい大島、そうやって靴のかかとを踏むやつに、いいダンスは踊れんぞ」
と一言告げた。
おどろいた。私がダンス部に在籍していることや、練習の際は必ずその靴を履いていること。それらをほんとうによく見ていなければ言えない言葉だったからである。副担任という役割において、生徒それぞれの所属部活動を把握していて当然だと言われればそれまでだが、彼がそこまでしっかりと一人ひとりに目を向けていることを、私はその時はじめて知ったのだった。

高校生ではなく、ひとりの人間として深く理解してくれた唯一の先生

この出来事を機に、D先生とはことあるごとに会話を重ねるようになった。
仏像のようだと感じていた表情も、生徒個々人への愛があってこそ、そこから生じる照れや恥じらいを隠すためだと気付いた。しかし、先生が深い心の持ち主だと知ったその頃にはあまりに時間が経ちすぎていた。私たちの卒業よりも一足先に、D先生の転任が決まったのである。後から聞いた話だが、教育のうえで支援が必要な生徒たちがあつまる学校へと引き抜かれたとのことだ。
高校生は、「高校生」ではない。同じ制服を着ていてもそれぞれまったく別の人生を歩み、それぞれの視点でものを見、言語化できない複雑な心を抱えて生きている、ひとりの人間だ。そしてそれを深く理解してくれている教師は、私の知る限りD先生だけだった。一筋縄ではいかない教育の場に引き抜かれたことも、だから私には納得がいく。
生徒全員が体育館へ招集され、D先生が最後の挨拶のために登壇した。ひとつひとつの言葉を心の底から汲み上げ、いとおしむように、先生は別れを紡いだ。そして、ある特定の生徒の名をいくつか挙げ、彼らとの思い出について語り始めた。三名ほど引き合いに出されたのだが、私の名もそのうちにあり、マイクを通した先生の声によって誇らしく体育館に響いた。

今も脳裏に浮かぶ先生の言葉。そのたび靴のかかとに手をやる

それから私も無事高校を卒業し、新たな生活に忙しくしていたある冬のこと、D先生から一枚のハガキが届いた。年賀状だった。
家族写真に直筆で一言添えられているといういかにもありきたりな年賀状だが、久しぶりの先生の姿は、家庭のなかでも変わらず仏像のような顔をしていた。家族を愛しているのだと思った。メッセージは正確には憶えていないが、「人生において大切なのは、感謝と謙虚さ、誠実さ」とかいうようなことが書いてあったと思う。

私はいま、実家や高校から遠く離れた土地で暮らしている。
家から10秒ほどの距離にコンビニがあり、夜中に突然小腹が空いた時などは重宝している。軽い足取りで玄関を出ると、たまに、自分があの頃と同じように靴のかかとを履きつぶしていることに気づく。
「おい大島、そうやって靴のかかとを踏むやつに、いいダンスは踊れんぞ」
どこからか、D先生の声が聞こえる。
ダンスはもう辞めてしまったが、その言葉はまるで訓辞のように、忘れた頃を見計らって脳裏に浮かぶ。
そして私はいつも、彼の表情を、年賀状の達筆を思い浮かべながら、靴のかかとに手をやるのだ。