きっかけは、中学生のときに感じた小さな疑問だった

中学生のとき、学校への提出物には保護者名を書く欄があった。母にそれを書いてもらうときには、なぜかいつも父の名前を書いていた。

ある日、それをふと疑問に感じた。母にも聞いてみたけれどなんでだろうね?と首を傾げられ、インターネットで調べたり、周りの友人に聞いたりもしてみたけれど、明確な答えは見つからなかった。海外では少し違うかも、と欧米圏の友人に聞いてもみたが、特に事情は変わらないようであった。

なぜ、夫婦共働き家庭で母親が「保護者名」を記入する際にも、父親の名前を書くことが習慣になっているのだろうか。そもそも、これを習慣として受け入れていること自体が問題なのではないか。この疑問は私の目を無意識の偏見、アンコンシャス・バイアスに向けてくれる良いきっかけとなった。

「偏見」は身の回りで息を潜めているのかもしれない

このような例は私たちの身の回りにいくらでもあると思う。なぜ、テレビでは男性MCが圧倒的に多く、女性は補助的な役割に従属しているのか。よくある「一般家庭」のイラストでエプロンをつけているのが常に女性なのはなぜなのか。雑誌特集で女性医師が「女医」としてフィーチャーされるのはなぜなのか。

いつもこれを当たり前のこととして受け入れてしまって、それに気がつきもしないという生き方は本当に望ましいものなのか。

人種差別に性差別。今の世界では差別は大きな問題として取り上げられるようになってきており、SNS上でのムーブメントもよく話題となる。国の制度改革も進みつつある。

これらはある大きな事件がきっかけとなって始まることが多いけれども、実際の偏見は、このように日常生活の中にひっそりと息を潜めているものなのではないか。身の回りの物事のひとつひとつに目を向けてそれを問い直すことほど面倒で、でも重要なことはないかもしれない。

疑問を感じたら声を上げること。みんなで考える機会をもたらしたい

私自身、無意識の偏見を助長してしまっている部分はまだまだたくさんあると思う。そこにどう気がついていけばよいのか。やはり、疑問に感じた人が声を上げ、周りの人に考えるきっかけを提供するしかないだろう。

 その意味では、この「かがみよかがみ」は、様々なバックグラウンドを持つ若い女性の声を社会に届けるという非常に重要な活動をしているといえる。大きな発信力を持たない私のような存在でも、このような場でリアルな声を届けることが可能になっている。このエッセイをどんな人が読んでくれるかは分からないが、老若男女問わず考えるきっかけにしてもらえたらこれほど嬉しいことはない。