人の字を見るのが好きだ。人の書いた文字に触れる機会が学生の頃に比べてめっきり減ったせいか、眼球が暴走して無性に手書きの字を追ってしまう。

例えば昨日、家に来た業者さんが書類にメモをとっていた。それを横から盗み見てうっとりする。小さなミミズが這ったような筆跡に、(あぁ、愛くるしい)と悶絶。手が大きくて手元が見えにくそうだね、そんなことまで考えて胸をときめかせる。決して嫌味ではなく、本気でそう思うのだ。

一方私の字は『ハリボテ』のよう。子どもの頃から習字を習っていたおかげで、そこそこ?お手本に忠実な字を書けるようになった。読みやすさという点では便利だけれど、私はもっと、こう、自然体で自分らしさが滲み出るような字に憧れている。

そうは思えど、時間を費やして体に覚え込ませた書き方の癖ってやつは、なかなか染みついて抜けない。私はもう習字を習う前の字には戻れないのだろう。

丸文字との出会いで、字に対する概念がひっくり返った

中学時代、女子の間で流行った丸文字。ノートの切れ端を使った友人との手紙交換は、幼気で可愛い筆跡のオンパレード。私も愛嬌たっぷりな字を書けるようになりたくて、授業中ルーズリーフに「五十音」を書き殴った。隅から隅まで、紙一面に呪文のごとく広がる平仮名たち。練習しても、練習しても、練習しても、私の字は全然まるっこいフォルムをとらない。

先生は教壇の前から、机と睨めっこしている私を見て「珍しく勉強熱心だ」と茶化し生徒の笑いを誘った。アハハ、授業全く聞いてませんでした、ごめんなさい。あれは何の教科だったかな?

とにかく練習のかいも虚しく、あの可愛いくてたまらない丸文字を習得することは出来なかった(今でも心残り)。そしてこの件は、これまで字に対して"上手いか下手か"という概念しか持たなかった私の世界を、ぐるりとひっくり返すきっかけとなった。

祖母の日記の筆跡が宿す、老いることの美しさ

私の祖母は生前、日記をつける習慣があった。遡ると30年分もあるノートの束、『アンネの日記』のように静かに淡々と自分の生活を綴ってある。私は時々、その黄ばんだページを捲って過去にタイムスリップする。

人生の痕跡を辿るように筆跡を眺めていくと、小さな遺跡を発掘することができた。若かりし頃の祖母の字は縦長で凛々しい。70代を迎えた頃になると、元のカタチは留めているものの筆圧が弱くなり震えている。それらの筆跡には、老いることの美しさが宿っているようにも見える。

前にもあるように、字の世界は“上手いか下手か”だけではない。一見不格好に見える筆跡にさえ、その人だけの物語が隠れていて、それらはすべからく美しいものに思う。

他人の目に映る私の字も、なんらかの個性を放っているのだろう。自分では分からないのだから悔しいよ。

年賀状の美しい筆跡が見たくて、今年もペンを走らせる


今私は年賀状の作成をしている。年末の大仕事のうちの1つだ。『あけましておめでとう』とLINEでやり取りする方が早いけれど、返信の年賀状欲しさにペンを走らせる。みんなの字が見たいんだよな~。

極近しい友人には図々しくも「不都合がなければ、年賀状を送っておくれよ(手書きで頼む)」と催促するのは、この時期私のお決まりで、スマホ越しに友人の迷惑そうな顔が浮かぶ。マジですまん。

それはさておき、これを読まれたあなたは一体どんな字を書く方なのでしょうか。私のように自分の書く字がなんだか気に入らない方も、いやいや、私は自分の字が好きだよ!と思う方も大勢いるだろう。いずれにせよ、そのどれもが美しい筆跡であることには違いない。だって本当に、すべての字がすべからく美しいから。