あなたに親友はいますか?
じゃあ、友達は?
私にはたぶん、親友がいない。
「親友」を「何でもわかりあえる唯一無二の友達」と定義する。その自分流の定義に基づくならば、私にそのような存在はいないと思う。そして誰かにとっての「親友」にも、きっとなれていない。
とても気に入っている、「端っこが共鳴する友達」との友人関係
しかし私には、「端っこが共鳴する友達」がいる。ひとりではなく、3人…、5人? いや、しっかり考えれば10人くらいだろうか。
「端っこが共鳴する友達」との友人関係を、私はとても気に入っている。大切な彼女たちとの友人関係について書きたい。
友人Aの前で、私は“恋に恋するやかましい女”である。
好きな人がいる時期はクラスの違うAのもとへ走り、「ねぇ!やばい!〇〇くんと喋った!!」などと、瞬間湯沸かし器のように興奮しながら話した。惚気にすらなっていない、ただの嬉しかった出来事。告白する勇気は持ち合わせていない私の、恋を楽しんでいるだけのトークを、Aはいつでもにこにこしながら聞いてくれる。
友人Bといるときの私は“お母さんみたいな相談役”だ。(自称しているようで恥ずかしいが、Bの発言をもとに書いている。)
Bには、私の好きな人の話はしない。ただひたすらにBの恋愛事情を聞き、どこかで聞きかじったそれっぽいアドバイスをしては、一緒に想像を駆け巡らせる。ときどき茶化したり、真剣に話を聞きすぎて泣きそうになったり、Bのころころと変わる表情をかわいいなと思いながら、いつも話を聞いた。
友人Cと遊ぶとき、私は“家族の悩みを共有できる長女仲間”である。
Cと私は家族構成がほとんど同じ。Cは非常に冷静で、達観したものの見方をする。彼女ときょうだいトークやちょっとした家の愚痴などを話すと共感することが多く、とても盛り上がる。家庭の話、しかも暗い内容となると、話す相手に気を遣わなければならない。しかし、家族に対する考え方をなんとなく理解しあえている分、深く繊細な内容でもCになら話せる。
友人Dと飲んでいるときの私は“暑くるしく夢を語る戦友”だ。
私には夢がある。しかし22歳にもなって、現実も見ずに堂々と自分の夢を語るのは気恥ずかしさがある。就活や進路の壁にぶつかったとき、ごはん行こうよ、と誘いたくなるのがDだ。
Dにも夢があり、ばかみたいに熱い野望を自分とアルコールに酔いながら語る。そんな熱さと前向きな瞳が私は大好きだ。互いに夢を叶えて、そして、いつか。そんな少年漫画のような話を、Dといつも繰り広げる。
不思議そうにするB、真面目な顔のA、どうでもいいようにあしらうD
学生時代ずっと恋愛相談を受けていたBに先日、私が昔好きだった人の話をする機会があった。するとBは「え、なんでハル(私)がそんなダメな人を好きになったん…?」と、心底不思議そうな目をした。
しかし、瞬間湯沸かし器の私がいつも恋バナを持ちかけていたAは、「ハルは好きになっちゃダメな人にハマるから怖い」と真面目な顔をする。
家族について真剣に相談し合えるCに夢を語ると、「なんか、いいね。夢があって」と、あまり楽しそうな顔をしない。
夢の話で意気投合するDに家族の悩みを何気なくこぼせば、「そんなこと気にしたって仕方なくない?」とどうでもいいようにあしらわれる。
何人かがいて、複数の側面をもつ「私」のすべてを保つことができる
Aにマシンガントークする私も、
Bの話を静かに頷きながら聞く私も、
Cと悩みを相談しあう私も、
Dと乾杯して大声で爆笑する私も、
矛盾しているようで、どれも本当の「私」だ。
「危なっかしい」、「しっかり者」、「落ち着いている」、「めちゃくちゃ熱い」。それぞれの友人が表す「私」はまるで違うけれど、彼女たちが見ている姿に何ひとつ嘘はない。
この子の前ではこんな自分でいたい。
この人だからこの話をしたい。
唯一無二の存在ではなく、何人かの友達の存在によって、複数の側面をもつ「私」のすべてを保つことができている。
何でもわかりあえるわけではないからこそ、私の一部分と、彼女たちの一部分、端っこと端っこが、大きく共鳴して響き合う。
そして、大きく共鳴する部分があるから、ほかの部分で価値観が食い違ったり意見が合わなかったりしても、いい意味であきらめがつく。何もかも同じ人などいない。こういうこともあるよね、とひと息ついて、次に会ったときには笑っていられる。
そんな友人関係を築けている今をとても幸福に思う。そして「親友」ではない彼女たちをこれからも、ずっとずっと大切にしていきたい。