秘密結社を作ろうと思い立ったとき、最初に頭に浮かんだのは彼女のことだった。
彼女と私には、多くの共通項がある。私たちは同い年で、同じく同い年の2人の弟を持つ長女であり、上の弟が理数系に特化した高校に進学したことも、三兄弟で唯一末弟だけが部活のために違う中学校に進学したことも同じだった。この二つの三兄弟が現在歩んでいる道もよく似ている。
一つ大きな違いがあるとしたら、彼女がとても見目麗しいという点だ。二重のキラキラした大きな目は笑うと細くなり、顔含め頭部は、前から見ても斜めから見ても横から見ても綺麗な立体だ。どんなプチプラの服であっても華奢な彼女が着ると、デパートにあったものの様に見える。
20代後半になり、マッチングアプリにのめり込んでいく話題が増えた
秘密結社を作らなければ私の生活が危ないと感じたとき、彼女に最初に声を掛けたのは、中学生の時におじゃました彼女の部屋の天井から、レオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機の模型が吊り下がっていたのを覚えていたからだ。
しかし、彼女が“美しい人”である、というのも要素の一つであったことは否めない。私は、恋愛と結婚以外の話を誰かとしたかった。地学と科学に詳しくて美しい彼女は、その話題からスマートに無縁でいられる人だった。
20代後半になり、私の周りの同性の話題は、急に固定化され始めてきた。恋人や夫がいない者たちが、次々とマッチングアプリにのめり込み、会うたびに“今連絡を取っている男”とやらを、遊戯王カードのように展開してくるようになった。学歴、年収、社名、将来性、知りもしない男の社会的バロメータを次々に披露されながら、「この子はいつターンエンドって言うんだろう」と私はいつもぼんやり思う。
遊戯王カードやデュエルマスターズカードで戦うときには、自分の手札を切り終わったら「ターンエンド」と宣言するのだ。でも、私のターンは来ない。夫といて幸せだという話をすることは、何故だか憚られた。
秘密結社を作ろうと思ったのは、子供のように純粋に遊びたかったから
高い社会的ステイタスを持つ男性の一部にとって、マッチングアプリというのは無料風俗みたいなものなのだろう。学歴や仕事や年収をピカピカと点灯させ、結婚できるかもと思って近寄ってきた女たちをパクリと食べてしまうのだ。
婚姻外の浮気については、婚約でもしていない限り法には問えない。「付き合おう」という言葉も、“付き合っている”というステイタスも無意味だ。でも、彼女らは懲りずに捕食されてしまう。
そして、私は彼女らが置かれたその構造について、どうしても指摘することが出来ない。それをいうと、きっと彼女らの尊厳を傷つけてしまうと思うからだ。ただただ経済合理的な発想に人間観まで浸食されていっている彼女らとは、“今は”やっていけないと思った。
「秘密結社を作ろう」という私のLINEに返ってきた返事は「いいね!作ろう!」だった。『福来友吉ゼミ』という仮称を考えた。特に超能力や透視に特化した組織を作りたいわけではなかったのだが、とにかく子どものように純粋に遊びたかった。
“子どものように”というと、おかしいかもしれない。子どもには子どもで過酷な世界がきっとあるはずだから。私たちは、蛍石の採掘の話をした。秘密結社新聞の刊行の話をした。他の同級生にも声を掛けて、30歳になったら三十路制服ディズニー、40歳になったら不惑制服ディズニーをしようと話した。
あの子といれば…いつだって「10代の日々」のように楽しくいられる
私が秘密結社を作ってでも抗いたかったもの。耐えがたかったもの。それは、年齢とそのイメージとそこから推奨される“人並みの人生”で、クワガタ相撲をさせられることなのだと思う。みんな、しあわせになりたいだけなのに。私や私の友人たちがクワガタだとしたら、それを台の上に乗せる人間の手とは社会のことだろう。その指を、食いちぎりたいと思った。
シール帳のシールを交換するようなコミュニケーションを、何歳になっても続けていくつもりだ。荒唐無稽だと思われかねないような楽しいことをひたすら重ねていくことで、私のハサミは磨かれるのではないかと思っている。もしかしたら、毒クワガタにだってなれるかもしれない。それはもう、触れないくらいに強い毒の。
良く晴れた日曜日、彼女と一緒に大阪の外れのスーパー銭湯へ行った。脱衣所にサービスで置いてある化粧水をバシャバシャと遠慮なく使い、親の敵の如く高速で泡を噴出して来る風呂に浸かった。温泉は、とても楽しい。私は70歳になっても彼女と温泉に行きたい。
私は彼女と人間クワガタ相撲なんて絶対にやらない。無理矢理土俵に上げられたとして、困った顔をした綺麗な彼女と盆踊りしか踊ってやらない。例えば、今この文章を書いているように。
三流メディアや広告や知らない誰かが私にどんなカテゴライズをし、どんなイメージを喧伝してこようが、私にはあの子がいるから孤独ではない。
私はいつだって彼女といた10代の思い出の中に居場所を持っているし、それはきっと今後も続いていく関係性の中から無くならないと信じている。
ごきげんよう、クワガタファイター達よ。私は土俵には上がらないけど、土俵が嫌になったときにはいつでもスーパー銭湯にお供したいと思っているわ。そう、私は綺麗な森で、おいしい樹液を啜って暮らすのだ。そして、不躾な人間の指が伸びてきたなら深い切り傷を作ってやるのだ。