どこか遠くに行ってしまいたい気分。そんなときは、本屋に行く

何か特別嫌なことがあったわけではないけど、心にぽっかりと穴が空いている気がする。
気の合う友達と話しても、何かが足りない。
どこか遠くに行ってしまいたい気分。

そんな時私は、本屋に行く。
整然と並べられた数多の本たち。その一冊一冊に世界が詰まっている。
行き先は自分次第。心の赴くままに本屋という出発ロビーを闊歩する。
自由に旅行することができない今、せめて心だけは少しでも遠くに持っていきたいものだ。

気になった本を手に取り、裏返してあらすじに目を通す。
言語化できない心のモヤモヤをすっと整理してくれる本。
閉め切られて淀んだ自分の頭に風穴をあけてくれる本。
現実という世界から自分を連れ出してくれる本。
この本の中にはどんな世界が広がっているんだろうか。
まだ見ぬ世界に期待を膨らませるのは、旅行に行く前とよく似ている。

旅行に行くと外からたくさんの刺激を受ける。
知らない環境に身を置くことで、今日までの自分を俯瞰で見ることが出来たり、自分も知らない自分の存在に気付くことが出来る。
本も同じだと思う。 その本の持つ世界に触れることで、新たな視点で自分を見つめ直すことが出来ると思うのだ。

学生時代に読んでいた本を手に取る。読むと当時の情景が浮かんできた

本探しに夢中になっていると、自分が学生時代に読んでいた小説を見つけた。
文庫本になっている。 私が大学の図書館で読んでいた頃は、単行本しか出ていなかったのに。 月日の流れを感じた。

お気に入りの小説だった。
思わず手に取り、ぱらぱらとページをめくる。 一文読むとその当時の情景が浮かぶ。
5月の初め、新緑の頃。初夏の訪れを感じ始めた時期。
その時の自分が何を考え何に悩んでいたのかさえ、思い出すことが出来た。
一文一文に記憶が刻み込まれている。 まるで本が一種の記録媒体のように感じられた。

懐かしさのあまり読み進めていくと、面白いことに気が付いた。
当時の自分と今の自分では、感じ方が違う。
同じ物語を読んでいるはずなのに、まるで違う物語のようだ。
子供の頃に訪れた場所に大人になってから再び訪れた時のような、そんな感覚に似ていた。

背でも伸びて視点が変わったのだろうか、とありえないことを考えて笑ってしまった。
いくつになっても大人になれない、変わることの出来ない自分だと嘆いていたけど、しっかりと歩んでいたんだ。
本という世界を介して、過去の自分と対峙し今の自分を捉えることが出来た。
良くも悪くも、変わらないものなどないのだと感じた。

思いがけない過去への旅。数年後に読み返して、またタイムトラベルを

ちょっと遠くに出かけるつもりが、思いがけず過去にタイムトラベルしてしまった。
単行本から手のひらに収まる文庫本に変わったこの本をもう一度読んで、今の自分を一文一文に刻み込もう。

そして数年後読み返して、またタイムトラベルしよう。
その時自分はどう感じるだろう、考えただけで旅行に行く前の日のようにワクワクする。

私は文庫本を持ってレジに並んだ。レジが搭乗口のように感じられた。
自由に旅行することができない今、せめて心だけは少しでも遠くに持っていきたいものだ。
店員さんは、いってらっしゃい、とでも言うかのように丁寧にブックカバーをかけてくれた。
私は、いってきます、と心の中で言ってから本屋を出た。