休職について書いたエッセイが朝日新聞社運営の『かがみよかがみ』に採用してもらえた。
たまに、ほんとにたまに「素敵な表現するね」なんて言ってもらえていたりしたから、丁度休職中で暇だし、投稿してみることにした。

エッセイ採用報告に仲のいい先輩の返信は、褒めや労いの言葉ではなく

内容は休職に至るまでのことについて。 
「優しさ振り撒いて仕事してたら、心がどっかいった。右にも左にも寄らずに生きてきたから、何にも誰も残ってなかった」とか、
「ワタシ、6年も働いてて誰ともなにも築いてこなかったんだ。そっか、ずっとそうだったんだ」とか。
あの頃の私にとって、あの時の一瞬一瞬が、私の全てだと思ったし、私の生きている世界だったから、今までの息苦しさ、不安や切なさ、全部ぐちゃぐちゃに混ぜて書いてたらとても寂しい表現になってしまった。
採用されたことを職場で唯一仲のいい先輩に報告した。
帰ってきた返信は、「そんなさみしいこと言うんじゃないよ」。

褒めてくれるんだろうなと勝手に思い込んでいたし、褒めてくれなかったとしても「つらかったんだね」って労いの言葉をかけてもらえるものだと思っていた。
私の予想は見事にハズれ。あんなことやこんなことをピューんと飛び越え、あっという間に彼女を傷つけてしまった。
もちろん悪気なく呑気な態度で報告してしまったから、彼女の返信にはとても驚いた。そして、ゆっくり私も傷ついた。

先輩の優しく熱い言葉に涙がポタポタ出たけど、じんわり心が温かい

深夜に来ていたそのメッセージ。「そんなことゆうんじゃないよ」のあとには優しく熱い言葉が綴られていた。
読み進めるにつれて涙がポタポタ出てきて、こんなふうに涙を流すのってあまりないことだったから少し戸惑ったけど、心がじんわり温かくなっていくのがわかって心地よかった。

大人になればなるほど人の優しさというものが沁みる。友人という存在は歳を重ねるにつれて限られていき、しかも出産や妊娠ラッシュを迎えている我々世代。都合よく会える友人もだんだんと減ってきた。
高校生のときみたいな熱い友情なんてのは、この歳になるとほとんどない。
いい意味で落ち着いてしまった我々世代。こんなエッセイにあえてひっかかる必要もなく、「すごいね!」「おめでとう!」って定型文を繋ぎ合わせてピッと送信しちゃえばいいものを、ちゃんと「それ、違う」って、どこにもない、彼女だけの言葉で想いを伝えてくれたことがとても嬉しく、なんだかこの感じがとっても懐かしかった。

先輩の想いに気づき、投稿したエッセイの一部は私の脳内で一気に修正

なんともお恥ずかしい話なのだが、厨二病っぽい精神が未だに抜け切らず、「わたしなんかひとりだー」「孤独なんだー」なんて勝手に思って落ち込んでおかしな優越感に浸ってしまうくせがあるのだが、そんなわたしに、孤独なんかじゃないことを彼女はしっかり示してくれた。
投稿したエッセイの一部は私の脳内で一気に修正。
ひとつめの文章は「優しさ振り撒いて仕事してたら、心がどっかいった。右にも左にも寄らずに生きてきたから、何にも誰も残ってなかった(※すみません、大切な先輩はいます)」に。
そしてふたつめの文は「ワタシ、6年も働いてて誰ともなにも築いてこなかったんだ。そっか、ずっとそうだったんだ(※ここもフィクションです、大切な先輩と大切な時間を刻んできました)」という感じで注意書きをしっかり書き足した(笑)。
グレーで澱んだ世界にいる私の手をぐっと引っ張って、黄色い世界に連れ戻してくれた彼女。きっと救世主なんだと思う。

人と関われば傷つく。関わる人が増えれば増えるほど、たくさん傷つくし、傷つけてしまう。
だから人と関わるのは少し億劫で面倒で距離をとってしまうことばかりだったけど、人と関われば優しさってやつに触れることができたりもするから、人生捨てたもんじゃないって思えたりした。
もう何にも誰も残っていなかったなんて2度と言わない。