新卒、広告代理店に就職、渋谷勤務のデザイナー。4月の私の目の前には、華やかな線路がまっすぐ伸びて、好きなように進めるような気がしていた。
それは何とも愚かしい勘違いで、私は入社半年で働けなくなった。

入社前の自信はあっという間に消え、仕事はとめどなく積もっていく

広告代理店は激務だと散々聞かされていたが、好きなことなら長時間労働も苦にならないと考えていた。それに地区のコンクールで三度入賞したせいもあって、自分はデザイナーとして優秀な方だと思っていた。
私はまさに井の中で、空を見ない傲慢な蛙だった。えてして蛙は井戸の上に空があることすら気づいていないのだ。
現場に配属されると、認識の甘さを突き付けられた。求められるレベルも周りのレベルも高い。藝大卒が当たり前、学生時代から絵で飯を食っていた人ばかりの世界だ。営業から無茶な納期を要求され、何度も原因不明のリテイクがかかる。
たちまち私は自信をなくした。上司に罵倒されながら、仕事はとめどなく積もっていく。月の残業時間が200を超えてからは数えていない。食欲がわかず体重が10キロ減った。夜は仕事の夢にうなされて眠れなかった。
そんな状態が2ヶ月ほど続き、ある朝急に涙が止まらなくなった。化粧が落ちるので大きめのマスクをつけて出勤した。部署のミーティングに出ながら、涙が止まらず指はこわばり、頭は殴られたように痛んだ。翌日、病院でうつ病と診断された。
上司はさして驚かず、淡々と休職を勧めてきた。この業界では珍しくないらしい。最低限の引継ぎを終え、私は3ヶ月間の休職手続きをとった。
帰り道、渋谷の街はやけに騒がしかった。魔女に吸血鬼、血まみれのメイド。今の私ならノーメイクで亡霊のコスプレができるなと考えた。
10月が終わろうとしていた。

目的や意義という概念を強制的に忘れるための旅をしにふらり京都へ

休職開始から丸1週間引きこもった後、私は京都へ行くことにした。
特別な理由はない。どこか遠くへ行きたくて、ノートに日本地図を描き、目をつぶってボールペンを突き立てたのが京都だっただけだ。
デザインを休んでいるくせに絵を描いている自分がなんだかみじめで、滑稽だった。
翌日の朝、新幹線とバスを乗り継ぎ祇園に着いた。インスタグラムで周囲の観光スポットを探そうとしてやめた。そんなことをしに京都に来たのではない。目的や意義という概念を強制的に忘れるための旅なのだ。

あてもなく京都河原町駅の周辺を歩く。せっかくの非日常を楽しまなければと思う。
しかし、私は何をしているんだろう、また同僚と差がつく、という気持ちが重石のように体を押さえつける。
新京極商店街に入った。金物。クレープ。古着。靴。漬物。純喫茶。無秩序に並ぶ店舗には心が躍る。10歩ごとにタピオカ屋が出現する原宿とは大違いだ。
店先を覗きながら歩くうち、雑貨屋が目に留まった。和柄の小物入れや塗りのかんざしがガラスケースに並ぶ。古めかしい看板には「阿紫」と書かれている。

「走ってきやはったの?」。不思議な質問をする老婆に感じる違和感

ふらりと無人の店内に入った。扇子、手ぬぐい、くし。端から順に商品を眺める。小銭入れに触れると、ちりめんの独特の感触が心地よかった。
「走ってきやはったの?」
急に横から声がして飛び上がった。振り向くと白髪の老婆が隣に立っている。山吹色の上品な着物、柔らかな物腰。店員のようだが何となく違和感があるのはなぜだろう。
「い、いいえ、あの……電車で来ました」
私はつっかえながら答える。変な質問だ。京都に来る観光客なんて電車かバスを使うに決まっている。
「何言うたはるのん。お客さんずうっと走ってきて、怪我したはるやないの、ここ」と私の胸をまっすぐ指さす。
どういう意味ですか、と言いかけてはたと気づく。老婆は口を閉じたままだ。なのに声だけが耳に入ってくる。背が冷たくなった。店の中には私たち2人しかいないはずだ。ビー玉のような目から視線が外せなかった。
白髪の老婆の口は相変わらず動かない。
「走るばっかりではあかん。ゆっくり歩いたり、立ち止まらはったらええ」
体全体が硬直している。しかし、不思議と怖さはなかった。老婆の声はゆっくり鼓膜を震わせ、頭蓋の中で反響する。
「空が青いのんにも気ぃつかへんようでは、お客さんは死んだはるのとおんなじです」
私は初めの違和感の原因に気づいた。山吹色の着物のえり合わせが、左前になっていた。死に装束、という言葉が頭をよぎった瞬間、視界が暗くなった。

気がつくと、私は商店街のベンチに座り、2時間ほどが経過していた

気がつくと私は商店街のベンチに座っていた。和雑貨の店も老婆も消えている。どうやって店を出たのか、記憶がすっぽり抜け落ちている。慌てて時計を見ると、2時間ほどが経過していた。
一体何があったのか分からない。私は来た道を戻ってみたが、あの店はどこにもなかった。そんなはずはないのだ。途方にくれて店名「阿紫」をネット検索した。
「阿紫:中国に伝わる狐の妖怪。阿紫霊狐とも言う」
狐につままれるとはこういうことか。1人でクスクス笑う私を見て、通行人がけげんな顔をする。笑ったのなんていつぶりだろう。心なしか肩が軽い。
ふと11月は紅葉の時期だということに思い至った。伏見稲荷で狐の神様をまつっていると聞くから、紅葉を見てお参りをしよう。
私は新京極商店街を出て立ち止まった。空の青さが眩しかった。