人はみんな違うはずなのに、同じを強いられる就活は違和感でしかない

「SP I、自己分析、エントリーシート、インターン……」
大学3年の夏頃になると、こぞって周囲からこんな単語が聞こえてきたことは、記憶にまだ新しい。これまで、それぞれが自分の好きな色に髪や顔を彩り、自分の好きな趣味に没頭し、形振り構わず大学をふらついて、時には真面目に勉強する。

それが、まるでモノクロ時代にタイムスリップしたかのように、同じ髪とメイク、同じ服装、同じ話題をしている。

人は何かきっかけがないと、自分の人生の選択ができないのかもしれない。
だけれど、そもそも人は皆んな違うはずなのだ。ペースも好みも考え方も全部違うはず。
ところが、一斉に運動会の徒競走かのように「よーい、どん!」と走り出し、誰が一番にゴールテープをきれるのかを、いまかいまかと全員が目配せしながら、冷や汗をかいて必死に走る感じ。違和感でしかなかった。

とはいえ、就活というものはどんなものか。
なんでもやってみなくちゃ分からないこともあるし。
そんな気分で、説明会や集団面接など何度か足を運んだことがあった。

説明会や集団面接に足を運ぶ度、私には合わなくてぐったりした

大概の会社がグループに分かれて学生をテーブルに配置させ、そこで自己紹介のワークや社員にインタビューなどのコンテンツがとり行われる。
どれも私には合わなかった。

知り合いでもないのに、自己紹介ではお見合いのように共通点探しをして、その場を盛り上げなくちゃいけない。そんな雰囲気に駆られてぐったりしてしまうし、社員インタビューなんかも、HPに載っているかのような質問を、取り敢えず皆んながしていく。終いには「ネイルできますか?」みたいな、質問も飛び交っていたから呆れてしまった。
全く無駄ではないことは理解できるが、「社会を変えたい」「成長したい」みたいな立派なフレーズを並べて豪語している姿を目にするたびに、用意したテンプレートをとりあえず使うことで自分の思考が停止してしまう気がして怖くなった。

私の友人の中には、就活がきっかけで疎遠になった人もいた。所謂「就活用語」を日々使いまくり、情報を得ては「誰はどこの会社に決まったんだって。優秀じゃない?」みたいなことを口にする。
気づけば、企業に入るための偏差値のようなもので物事を測っているような価値観になっていて、一緒にいると自分が評価されているような、何とも居心地悪い気分になってしまったのだった。

自分が大事にしたいものは「自分で守る」そう思えた就活の思い出

皆んな、全然違う人だったじゃん。社会の風潮や制度に怒りと懐疑的な気持ちが拭えず、「就活しなくちゃ」みたいな周囲のノリについていきたくなく、私は結局「就活」というものをしないことにしたのだ。

自分の頭で、どんな生き方をしたくて、どんな人と一緒にいたくて、好きなものをどう手放さずにいられるのかをしっかり考えたかった。
自分が失敗したり弱い気持ちになった時に、時代のせいや家族のせい友人のせいにするのではなく、自分が大事にしたいものは自分で守らなくちゃ、そう思った。

そんな就活の苦い話も、そっと閉まって開かれなくなった今だけれど、人生の様々な選択が取り留めとなく目の前に立ちはだかっている今、改めて自分が何を大事に守っていきたいのかを考え続けていきたいもの。
守ることは容易くなく努力が必要であったとしても、自分のことを軽く見積もって、妥協していくことはしたくない。

自分の感受性くらい自分で守れ、という茨木のり子さんの言葉の意味が、ぐっとわかる気がしている。