意識していないといえば嘘になる。
24歳、まだ若いといわれる年齢だけれども、結婚している人も子供がいる人もいる。
だけど結婚をどう思うかなんて、ちゃんと考えたことはない。
私には縁遠いことだと思っているし、もしくは現在結婚する相手がいないからそう感じるだけかもしれない。だからこれを機会に結婚について考えてみようと思う。
結婚とは、何のための、誰のものなのか。そこが引っかかるポイント
まず結婚願望があるかと問われると、回答に少し困ってしまう。
というのも、自分の家庭を作りたいとは思う。一緒に人生を歩むパートナーもほしいし、子供もほしい。だけどそれがイコール結婚なのかを考えてしまう。
乱暴な言い方だけど、結婚しなくたって家庭は築けられる。逆に言えば結婚したからと言って家庭が築けられるわけではないと思う。
簡単に言ってしまえば、パートナーと結婚できる人たちとできない人たちがいること。家庭を築きたいと願って結婚する人たちが、経済的理由で子作りを断念せざるを得ないこと。結婚とは、何のための、誰のものなのか。そこが私の引っかかるポイントなのである。
結婚とは、家族であることの証明だと私は思っていた。
けれど性別を理由に家族になれない人たちがいる。これでは私が考える結婚ではないことに気が付いた。だってなんて子供じみているが、愛し合う二人が結婚できないなんて、令和のこの時代に電報を使うくらいありえない。
それと誤解を恐れずに言うと、私は同性愛者ではないので相手がいれば結婚することができる。なのでできない人たちのことを考える必要がないのは確かなことでもある。
でも人を選ぶこの法律で国に家族と認められても、それは本当に家族なのだろうか。逆に言うと結婚できなければ家族じゃないのか。
私は今現在結婚できずに悩んでいる人たちが家族でないと思わない。
ならば結婚とは何なのか。
身近に思うからこそ、結婚することへの不安があるのだと思う
ここで話の腰を折って申し訳ないのだが個人的な話をさせてもらうと、私は去年叔母さんになった。初めて触れる赤ちゃんの小ささにとても驚いたと同時に、懸命に生きるその姿に感動した。そしてそれはすべて奇跡である。
妊娠することも、出産することも、そして無事に誕生することもすべて奇跡である。
その奇跡をたぐり寄せようと頑張っている人たちがいる。その人たちのサポートは十分なのだろうか。それに忘れてはいけないのは、出産して終わりではないということ。そこからが始まりであり、子供を育てるには時間もお金も必要になってくる。
今の制度に新しい命を迎える準備はできているのか。
結婚は誰のためにあるものなのか。
ここまでこうして私の考えを書き連ねてきたが、結婚への違和感がしっかりと形になっただけで、結論らしい結論は出なかった。結婚というより、結婚という法律への違和感というべきか。
そして気が付いたことといえば、冒頭に「意識していないといえば嘘になる」と書いたが、嘘になるどころか意識しすぎているということ。身近に思うからこそ、結婚することへの不安があるのだと思う。
だから私には結婚願望がある。それははっきりとした。
だけどもしもこの先結婚に代わる、誰もが平等に幸せになれるような法律が制定されたら、私はその法律で、病めるときも健やかなるときも愛を誓った人と家庭を築きたいと思う。