現実的ではないことをいえば、神様がもしもいたとして、お願いを聞いてもらえるとするのなら、男性でも妊娠・出産ができるような体に構造を変えることを乞い願うだろう。

よくいえば、知って欲しい。命を生み出す幸せを、十月十日一緒に過ごす幸せを。本音をいえば、知って欲しい。命を生み出す壮絶な痛みを。十月十日一緒に過ごす不安を、命を抱えて生活する重みを。

そして、これが叶えば必然的に男性も産前・産後休暇と育児休暇を取らざるを得なくなるだろうし、妊娠・出産を体験したからこそ、この休暇への理解も意欲も深まるだろうと思うのだ。

男女ともに「育児休暇」を取得することが義務・法律化されたらいい

しかし、現状ではその願いは叶わない。医学がどこまでも進歩するか、人類が環境に適応した結果、奇跡的に突然変異でも起こさない限りは、叶わない。

だから、私がこの世の中の“何か”を変えることができる力をもったとするならば、“育児休暇の取得率の低さ”を変えたい。言い換えれば、“男女ともに育児休暇を取得することの義務化・法律化”を提言したい。それも、後ろ指さされながら取得するのではなく、気持ちよく取得できる風土があることを必須条件として。

私は昨年、出産を経験し、俗に言う産休・育休を取得させてもらえた。初めての育児に、毎日手探りで向き合いながら、今までの生活がガラリと変わったことに慣れない日々だった。

しかし、夫は違う。確かに、家族が一人増えた。休みの日は積極的に面倒を見てはくれるし、空いた時間は基本的には一緒に育児をしてくれる。

だが、夫の生活は、何一つとして変わっていない。起きて、仕事に行き、帰ってきて寝る。仕事に行く直前に起きるし、帰ってくる時間には我が子はもう眠りについているため、一緒に育児をしてくれてはいるものの、触れ合う時間というのは格段に少ない。

私は、朝起きるところから夜眠りにつくところまで、常に我が子と過ごす。生活の全てが、我が子を中心にしてまわるようになっていた。

何を基準に何と比べて、「育児が楽だ」と言われなければならないのか

ある時、些細なことから口論に発展した。「子供が寝とる時に一緒に寝れるんでしょ? そっちの方が楽じゃん」と言う夫の言葉に、私はとにかくカチンときたのだ。何を言っているのだ、この人は。何を基準にして、何を比べて、どうして楽だと言われなければならないのか。

思わず「じゃあ代わってよ、私が働くから」という言葉が出た。「そんなことできるわけないじゃん」と夫は言う。

「そうでしょう? あなたの会社では、育児休暇を申請することすらできないのでしょう? だから私が取って、24時間子供と一緒に過ごしているの。できるわけないくせに、軽々しく『そっちの方が楽だ』なんて言わないで。じゃあ申請できるところに転職でもしたら? それさえもできないくせに。自分がしたい職種について、今までと何も変わらない生活をして、いまだに自分中心の世界で生きているあなたにだけは、絶対そんなこと言われたくなかった」と、そんなことを心の底から思った。

これが日本の父親の現状です。日本の社会の現状です。出産を経験し得ない男性が父親の実感を持つのは、もしかすると母親よりもずっと後なのかもしれない。そうだとしても、もう少し育児休暇を前向きには捉えられないだろうか。男女ともに育児休暇を得る権利は、法に基づいて認められてはいる。

なぜ「育児休暇」に対して、冷たい視線を浴びなければならないのか

だが、それは本当に認められているのだろうか。主張できない権利は、果たして権利と呼べるのだろうか。仕事を休んで我が子の育児に、長い人生の中のたった1年間を捧げることは、そんなにも冷たい視線を浴びることなのだろうか。

男女雇用機会均等法をかかげてみたり、少子化を問題視してみたり、国はしているようだけれど。こんなにも育休の取得に差があって、何が男女雇用機会均等なのか。こんなにも育休に消極的な企業が多い中で、何の少子化対策を打っているのか。

女性の社会進出を謳い、男女平等に声を上げながら、国会議員に女性議員が少ないだの、トップに女性はなれないだの、問題提起をしているようだが、“親”という役目を前に、女性の社会進出は阻まれ、男女平等からは遠ざかっているのではないか。

誰もが親に必死に育ててきてもらっているはずなのに。どうして、簡単そうに見えるこの問題は、なかなか解決に向かっていかないのだろうか。

私がこの世の中の“何か”を変えることができる力を持ってさえいれば。