私にとって旅は、読書と同じくらい稀有な体験。時には読書よりも多くの事を教えてくれるものだと思う。

旅は私に「今後の人生をどういう風に生きるべきか」を教えてくれる

生きてりゃ人間誰だって、『なんで産まれてきたんだろう』という途方もない疑問を抱く。古今東西、人間は“生きる意味”を探してきた。
それを模索する事は、人間特有の思考であり感性。動物や昆虫のように、人生の意味なんて考えずに、狩りをして食べて産んで死んで……。自然の法則に抗わず阿呆に生きられたらどんなに楽だろう(動物愛護過激派の人に怒られそう)。

芸術はその昔から、人間の悶々とした葛藤を惜しみなく表現できるツールだったのだと思う。ウン百年と循環する生活の中にも、笑いと涙があるし、強く心を揺さぶられる事もある。それが無意味な訳ない!と、鋭く尖った感性の持ち主たちは、せっせと創作活動に勤しんで来た。
だけど、生きる意味なんか、まじで死ぬ3秒前くらいにやっとちょっと分かるようなもののような気もする。

……じゃなくて、旅のハナシ。
旅が私に教えてくれる事。それは『今後の人生をどういう風に生きるべきか』という事。自分は一体どんな人間なんだろうと考え、自身を解体する事が、味のある大人になるための重要な一歩だと思う。だから出来れば頭が柔らかいうちに、どんどん旅をするべきだと思う。

海外を旅したことで、今までの自分の守られた立場を客観視できた

今までの自分の立場、生き方、価値観を知る事は、守られたセーフティーゾーンを一旦抜け出してみない事には不可能なんじゃないか。

イタリアはナポリで、市民が下着を含めた衣類を窓から釣り紐を交差するように干しまくって、それが妙に街並みに溶け込んでいた。ちょうどいい風情を演出していた。
ちなみに私の実家は、晴れていようが風呂場の乾燥機で洗濯物を乾かす。別に外観を気にしての事ではなく、プライバシーの問題を懸念してそうしている。

スペインはマドリードで、十代前半と思われる少女のジプシーに追いかけられ、最終的には逃げ切ったものの、一度はリュックの中に手を突っ込まれた。
そもそも観光地に無防備なリュックで挑んだ自分が、いかに日本で平和ぼけしているのかという問題はあるにしろ、それが可愛らしい“普通”の少女だったため、本当に驚いた。彼女に出会ってしまった事で、私の中の既存の“正義”は意味を変えた。

独立住民投票直前のスコットランドでは、“BREXIT”の大きな横断幕を掲げ、街の市民たちが、イギリスからの独立を切願していた。私が日々目にしていたユニオンジャックの国旗は、誰の目にもスタイリッシュで憧れるものではなかった。

旅の一瞬で学ぶことは、その瞬間にしか感じられない宝物のような経験

旅が私に教えてくれるもうひとつの事。それは、「私はまだ何も知らない。何者でもない」という事。
本を読む事で、知識が豊富になるという事はとても立派な事だと思う。けれど、旅と読書、どちらがその後の人生を豊かにしてくれるのかと天秤にかけると、旅の方が個人的には若干重い気がする。その地に赴き、見て、聞いて、触って、味わって、嗅いで。

現地の人の声に耳を傾けて、同じように生活してみる。すると心がぐわんと突き動かされて、その一瞬に学ぶ事は多分、その一瞬にしか感じ取れない宝物のような経験。ちょっとアブナイな、でもまあ、死ぬ事はないか、くらいの程度のデンジャラスな旅が一番理想的。「生きてる!」って感じられるのて、そういう環境なんじゃないかな。

さて、ここまでの文章を読み返してみて、これはいつか偉い作家のおじさんの本で読んだ事で、あたかも私自身の考えのように書いてしまったと反省。つべこべ言わずにお前も旅をせい!と、そのおじさんに怒鳴られてしまいそう。
国内でも地元でも、なんならその辺の公園まででもいいから、とにかく外を歩け!って。歩けば何かに当たるから。
私だって、傲慢さをたっぷり持ち合わせている未熟な身分。無知な人間。たくさん歩いて、たくさん出会い、精進いたします。