私は喋ることが苦手だ。
何人かで、あるテーマについて話しあったり意見を聞き合う場面になると、決まって私は自分の意見を発言することが怖くなり、他の人の話を聞きながら頭の中で思考を巡らせるばかりで黙り込んでしまう。
なので、よく「私ばっかり話しちゃってごめんね」とか「もっと積極的に発言して欲しい」と言われることが多い。

自分が思っていることを言葉にしてみようとしても、それによって何かがこぼれてしまうような感覚や、自分の伝えたいことが上手く相手に届いていないような感覚に陥る。特に、自分のことについて何か説明したりするような自己紹介をするのが、大の苦手だ。

ありのままの自分を説明できる言葉と出会った

ただ、ここ最近自分のジェンダーやセクシュアリティについて「LGBTQ」だけでなく様々なジェンダーやセクシュアリティのあり方を表す名前にも出会ったことで、前よりももっとありのままの自分を説明できるようになった。
それは「アロマンティック・アセクシュアル」という言葉だった。

というのも、私は生まれてこの方女性を自認し、また異性愛者であることにあまり疑いを持たずに過ごしてきた。その一方で、これまで他人に恋愛感情や性的な魅力を感じたことがなく、彼氏やパートナーと呼ばれるような近しい存在の人がいたことがない。

私はこの社会で当たり前のように語られる、誰かと付き合って結婚して家族を持つといった幸せとされるストーリーを自然に受け入れ、自分がそうなるかもしれないという想像や人生も夢見てきた。でも、そのストーリーで描かれているような出来事はこれまでほとんど起きることはなかった。
だから、小学高学年の頃から決まって恋愛話を中心に繰り広げられる女子トークに加わることができなくて、友達が作りづらく孤独に感じ、世の中でたくさん語られるロマンスやラブストーリーはちっとも自分には当てはまらなかった。

そして、20代半ばに差し掛かってもそうした「女性は素敵な男性と恋をしてこそ美しく成長して成熟した女性になる」というストーリーはジブンゴトにならなかったので、この先の人生がただただ暗い狭いトンネルのように思えて、それを一人でずっと歩かなければならないんだと思うと、とてつもなく孤独で悲しい暗闇のような感情に飲み込まれていた。

そこで出会った「アロマンティック・アセクシュアル」という言葉は、こうした自分を前向きに受け入れるきっかけに変えてくれた。

言葉に自分を当てはめることへの葛藤もあった

しかし、一方で「アロマンティック・アセクシュアル」に自分を当てはめようとすると、上手くその言葉に収まりきらない感覚があった。
そう感じたのは、自分が「アロマンティック・アセクシュアル」なのかもしれないことを母親に伝えた時に返された「まだ良い人に出会ってないだけなんだし、それで自分を選択肢を狭めちゃうのも良くないんじゃない?」という言葉だった。

当初の私はその母親の反応に対して、自分が恋愛・結婚する人と出会うことを期待されていることにショックだったし、そんな自分を否定されたような気がして反発していた。
しかし、後々、言葉の意味を探っていく中で、セクシュアリティは人生において変わりうるものであり、「アロマンティック・アセクシュアル」もあくまでその時々のセクシュアリティを表すものであって、今後の恋愛感情・性的欲求を持つ可能性を全て否定するものではないことを知った。

そう考えると、今の私は恋愛や結婚には関心がないから「アロマンティック・アセクシュアル」と言えるような状況ではあるのかもしれないけれど、その可能性を諦めきることが難しかったり、その母の言葉が腑に落ちる部分もあったことに気がついた。

言語化することが様々な暴力を生み出しているのかもしれない

世の中にありふれた様々な言葉というものは、この世の中の物事のある一つの考えや側面を表すのであって、それで全てを説明できるわけではない。
だから、たとえこれまである一つの言葉によって表現された考え(ここでは「恋愛至上主義」や性愛規範」)によって不可視化されてきた存在に光を当てる言葉(例えば「アロマンティック・アセクシュアル」のような)があったとしても、それにこだわり過ぎると本来の姿や存在を見失ってしまうのかもしれない。

なぜなら、本来この世の中の物事やあるいは自分を含めた人間という存在は、もっと多種多様で複雑に絡み合った曖昧なもので、一つの言葉では表現しきれないものであるのだから。
だから、言葉によって切り取って明確化して言語化することは、ある意味で様々な暴力を生み出していると言えるのかもしれない。

なぜなら、そこには言語化されていないことが排除され、不可視化された存在があるから。
そうして、言語化によって物事に二面性が生み出され、ある特定の集団によって作り出されたある特定の考え方が力を持つようになると、それに当てはまらないマイノリティは差別的なレッテルを貼られ、その抑圧に苦しめられることになり、暴力が生まれてしまうのだろう。

また、言葉はこうした暴力に対抗しうる力を持つこともあるけれど、新たに不可視化される存在を生み出すことにもなって、それを考えずに使ってしまうと新たな暴力を生み出すことにもなるのかもしれない。
だから、私は言葉にすることが怖かったり、恐れたりしているのかもしれない。

言葉では表現しきれない自分がいることを良しとしたい

そして、それは自分自身に対しても同じことが起きる。
自分について言葉で語ろうとすると、ありのままの自分でいられなくなりそうな気がして怖いし、自分で自分をどのくらい言葉によって説明できているのかも分からない。まだ言葉にできていない自分の存在や自分さえ認識できていない側面がおそらく沢山あるだろう。
でも、だからこそ、言葉では表現しきれない自分がいること、そして言葉にすることを恐れる感情を否定せずに受け入れたい。そして、自分だけでなく、他人や世の中のあらゆる物事に対しても。
既にある言葉やカテゴリーに執着して物事を一面的に捉えることで終わらせるのではなくて、ありのままの姿を捉え続ける試みを諦めたくないし、例え言葉にできなくてもそれを良しとしたい。
そうすることで、誰もがありのままでいられるような社会に少しでも近づけられるかもしれないから。