自分のことなのに、まるで自分のことが分からない。
そんな感覚になったことはないだろうか。
自分が1番自分のことを分かっているはずなのに、いざ誰かに問を投げられたとき、上手く答えられなくて、「ああこんなに自分は自分のことを知らないんだ」とそのたびに嫌気がさす。
だから人は本を読み、あるいはSNSで同じ境遇の人たちを探し、自分と同じ一部を見つけては安心をする。

私も同じだ。
他人を通して自分に気づくことの毎日を繰り広げている。

なぜ付き合ったのか、どこが好きかとか、まるでわからない

私は、自分のセクシュアリティに悩んでいる。
いわば恋愛的好きがわからない、もしくはそう感じたことはない。し、性的欲求もない、というかそういう行為を大事だとは思えない。

これはアセクシュアルなのか、クワセクシュアルというものなのか。

ずっとそんな自分に違和感を抱き、自分がおかしいだけと勝手に納得させようとしていた。
それゆえ「自分がおかしいだけ」と飲み込んで、これまでもふつうに異性と交際をしていた。
だけどおかしいことに、毎度私はなぜ付き合ったのか、とかどこが好きか、とかキュンとか、まるでわからない。
可愛いとか、愛おしいという感覚はあるのだが。
スキということばは当てはまらない。

恋人でなくても、自分の弱いところをすべて受容してくれる人に会って

こんな風に、はっきりと答えられない状態で付き合い続けていた。

「なぜ?」

あらためて問いかけていたら、1つの答えが出る。
それは自分が存在していいと安心するための相手だったのだということ。
ずっと自分の存在に不安を抱く私だったから、誰かからそうでないという確証が欲しかったのだろう。
つまりは付き合う人に自分のエゴを張り付けていたわけだ。

しかし、そんな私に、衝撃的な出来事が起こる。
それは、恋人という関係でなくても自分の弱いところをすべて受容してくれる場所に気づけたことだった。

あなたのままでいい、頑張らなくていい、と言ってくれる人に出会えたこと。
ずっと、大切にしてくれるという人を恋人という関係が担ってくれると思っていたけど、そうじゃなかった。
そのように気付けたとき、
ふと、その時これまで2年も付き合っていた人への気持ちがどこかへ消えてしまった。

どこか不在な自分の居場所を探し求めて付き合っていたんだ

これで違和感が確信へと変わったわけだ。
わたしはどうも、好きだからとか恋愛じみた気持ちがあって付き合っていたわけではないと。
何かわからないけど、どこか不在な自分の居場所を探し求めて付き合っていた、と。

今回の出来事が起きたことで、私はすっかり迷子。
なんで自分が人と付き合っていたのか。
スキもわからなければ、性行為も大事とは思えないわたし。
でも誰かといたい気持ちはどこかあって。
でも結婚とか出産という前提は、あまりにも息苦しい。
自分が1番迷子だというのに、恋愛トークを投げかけられることもいっそう苦しい。

正直、これをアセクシュアルやクワセクシュアルと呼んでいいものなのか、と思ったりもする。
もしかするとデミセクシュアル・デミロマンティックかもしれないし、はたまた違うものかもしれないし。
まあ、カテゴライズするのは自分の中だけにしておいて、話す機会があるときに、セクシュアリティの多様性から手助けをもらう、その程度でいいと思う。

自分のことが1番分かっているはずなのに、分からなくてモヤモヤすることがあまりにも多い。
モヤモヤの答えを探し求めてわたしもこうだ!と発見したかと思えば、次は発見してしまったことで生きづらさが出てきたり。
みんな違って当たり前な世界に、自分だけが1人なんじゃないかと不安になるから答えを求めようとする。仲間を見つけようとする。周りも異なることになぜか寛容ではないからより一層ね。
だけど、もしかすると自分の不透明さ、っていうのは、そのわからなさのまま受け入れること自体が大切なのかもしれない。