「普通に考えればわかるでしょ」この言葉に私はひどく苦しんだ。
“普通”という言葉は何も悪意を伴って使われる言葉ではない。「普通は~でしょ」というフレーズはよく耳にするし目にする。しかし大勢の人が無意識に使っているその言葉は私にとって今でも呪いのような言葉となり私の行動を制限するものになっている。
「“普通は”こうやってやるでしょ」、「“普通は”こういう風に考えるでしょ」。このような言葉を投げかけられるとき、大抵は私の行いが否定されるときだ。そして指摘される度そうか、自分は“普通”ではないのかと思った。もっと言えば自分は間違っていたのかと思うのだ。
“普通”と言う正解を求めて
「普通に考えればわかるでしょ」という言葉は母と姉がよく使っていた。例えば、昔私が食器洗いをしていたら「やり方が違う。普通に考えればわかるでしょ」と言われたことがあった。今の私なら「初めてやるのに“普通”はどうやるかなんかわかるわけないでしょ」と反論するところであるが、幼い私は「なるほど、“普通”はそうなんだな」となんとなく納得してた。
でも自分なりに考えてやったことを「あんたのソレは普通じゃない」と言われるのはショックだった。ショックだった、と書いたがそう感じるようになったのはここ数年のことだ。母や姉もいじわるで言っているわけではないし、私も数年前までは何も感じていなかった。だけどその言葉のひとつひとつが私の心に小さな傷をつけていたのだろう。いつの間にか常に「正解」を求めるようになってしまった。特に家の中では何かを手伝おうにも自分で考えて行動することが怖くなっていた。いま自分がしようとしていることは「正解」だろうか、もし違ったらまた「普通に考えたらわかるでしょ」って言われるんだろうな…と自発的に行動するのが嫌になっていた。外でも自分は“普通”でいられているか常に気にした。普通な人間でいようと周りの人間を観察する癖がついた。
視野を広くしたら見えてきた”普通”に対しての疑問
しかし、そんな中、“普通”という言葉に自分が固執していたと気づいたきっかけがあった。
それは、自分がアセクシャルであるということを自覚したときだ。
アセクシュアルとは他者に対して恋愛感情や性的欲求を抱かないセクシュアリティのことである。この言葉を知ったとき、自分のことだと思ったと同時に「私は普通じゃないんだ」と咄嗟に感じた。だけど、いままでは誰かのことを好きにならず、性的欲求も抱かないことが自分にとっての“普通”だった。高校は女子校で周りに恋愛をしている子もほとんどいなかったため、恋愛というものに関して考えることがなかった。だから大学生になって急に彼氏の話をしている友人たちに違和感を感じた。性的なことを話している子もいてかなりびっくりした。
不安になりネットで自分と同じように恋愛感情や性的欲求を持たない人を探した、すると意外にもアセクシュアルの人は結構いるようだった。中には結婚している人もいた。そこで気がついた。自分で勝手に“普通”を決めつけて焦っていただけなのだと。“普通”か“普通じゃないか”にこだわりすぎていたのだ。アセクシュアルは普通じゃない、だなんて失礼にも程がある。
そこから私はほんの少し“普通”という呪縛から解き放たれた気がした。誰かの“普通”と私の“普通”が違うことはおかしいことではない。色んな人が自分にとっての“普通”を持っている。でも自分の“普通”を誰かに押し付けることはあってはいけないと思う。
「普通に考えればわかるでしょ」、この言葉を言われたとき私はこう返せるようになった。
「あなたの“普通”と私の“普通”は同じじゃない」、と。