初めて読んだとき、この本は私の人生において大切な本になる、と思った本があります。
読んだのは中学生のとき、いわゆるヤングアダルトの棚に陳列されている小説でした。
「妖怪アパートの幽雅な日常」(香月日輪著)の主人公は、進学を機に奇妙なアパートで一人暮らしすることになった男子高校生。この本は、彼が変人奇人に、なにより人外と個性豊かなそのアパートの居住者や来訪者に揉まれ、成長していく物語です。
分類するとしたら、ヒューマンドラマになるのではないでしょうか。妖怪に幽霊、ときに神様と、ヒューマン以外の登場人物が八割を占めていた気もしますが。
校区の中だけで生活しているため、「外」のものに対して恐怖感があった
この本が私に教えてくれたのは、「すぐ隣にある知らない世界」の存在です。
それは例えば妖怪が実在する世界、とかのことではありません。確かに物語中には、現実には存在を疑われているものがたくさん出てきます。ですがその本では、それらを特別に不思議なものとは扱っていなかったように思うのです。ですから、妖怪も幽霊も神様も、ときに愛おしくときに恐ろしい隣人として読んでいました。
そしてこれらは、現実にも置き換えられるのではないかと思ったのです。妖怪とか幽霊の別と、人種や男女の別は、なんら変わらないのかもしれない、と。
中学生の私の世界はとても狭かったです。地元の、同じ小学校からの進学者が大半を占める中学校に通っていました。似たものを好む、同じぐらいの学力の女の子たちと友だちグループを形成していました。
基本的に校区の中から出ず、校外に知り合いもおらず、遊びに行く場所も決まっている。そんな生活をしていました。そして、それ以外のものに対し、基本的にうっすらとした恐怖を感じていました。
その恐怖を拭ってくれたのが、例の本でした。おかしいかもしれませんが、本に出てくる人外のコミカルな面を知ることで、現実の、よく知らないものへの拒絶感が和らいだのです。
「知らない世界」が「すぐ隣」にあることを、ただ認識すればいい
本の中には、主人公にとっての「すぐ隣にある知らない世界」がたくさん出てきました。
例えばそれは実は傍らにあった妖怪たちのコミュニティであったり、超能力を一般的に使う人々であったり、感覚がまったく違うほどの財力を備えた集団だったりしました。
一方で主人公は、それらすべてを理解したり、分かり合ったりしたわけではありませんでした。自分や自分が身を置く世界がそうであるように、ただ単純にそこにあるものとして認めていたのです。
ヒューマンドラマですから、勧善懲悪の物語にはなり得ません。けれど、「すぐ隣に知らない世界」の存在を知り、認めるということは、中学生の私にとってひどく画期的なことだったのです。
ここで言う認めるとは、許す、ではなく認識する、の意味です。
中学生の私にとっては、話したことのない隣の席の男子ですら、根本的には恐怖の対象でした。知らない人や物に、過剰に怯えていたのです。
それが、その本を読んでから変わりました。ただそこにあること、無理に理解したり分かり合ったりする必要がないことが、すとん、と腑に落ちたのです。
「知らない世界」にうまく接することで、生きやすくなった
中学を卒業し、進学や就職でいろいろな「すぐ隣にある知らない世界」に出会ったりすれ違ったり、そしてたぶん気付かないままに通り過ぎたりしました。さらにはSNSの発達などで、ネット上の「すぐ隣にある知らない世界」と近付くこともままありました。
それらに対して、ときに私は仲間に入れてもらったり何かを教えてもらったりして、知らない世界ではなくなりました。
一方で気付かない振りをしたり、あえて踏み込まなかったりしたこともあります。共通するのは、必要以上に怯えることなどないと知っていたことです。
例の本は私に「すぐ隣にある知らない世界」の存在を教え、それらに対する接し方の指針になってくれたのです。
この世は広く、色んな世界、つまりコミュニティや文化や分野があるということ。そしてそれらを無理に理解したり分かり合ったりする必要はなく、一方で存在を認めることで随分と生きやすくなるということです。
中学生の、周りの色んなものに怯えてばかりの私のまま成長していたら、息苦しさにどこかで窒息してしまっていたでしょう。ですから今の私があることが、その本が私の人生において大切な本である証左なのです。