中学校の校舎に入れば、「大人」の解像度が一気に高まる

梨木香歩の『西の魔女が死んだ』は、急激な人間関係の変化に押しつぶされそうだった私を救ってくれた本である。
ここで簡単にあらすじを説明しておこう。

中学に進学した「まい」は、ちょっとした人間関係のひずみによって学校に行けなくなってしまう。学校に行く代わりに、母方の祖母のもとで暮らし、魔女になるための修行に励むことになる。「まい」の祖母は魔女だったのである。
ただし、「魔女」といっても、おとぎ話に出てくるような恐ろしい魔女ではない。魔女修行といっても、派手なことは一切登場しない。規則正しい生活を送ること。ベッドメイキングを行うこと。ジャムを作ること。ここでの「修行」とは、生活に生気を送ることであったのだ。

中学校に入れば、人間関係はますます複雑化する。ひとたびクラスメイトの縄張りから外れたら、居場所はなくなってしまう。「まい」はクラスメイトとの他愛のない会話に張り詰めた緊張感に疲弊したのだろう。

中学に入学して、一変した世界。これは、「まい」に限らず、多くの人が経験したことではないだろうか。
小学校にはなかった上下関係。部活。恋愛。性への言及も増える。中学校の校舎に入れば、「大人」というものの解像度が一気に高まる。この点でいえば、中学進学はイニシエーションのようなものであろう。私も中学という場で、イニシエーションを迎えたのである。「大人」の世界では、不文律に従わなければならないことを学んだ。

中学のクラスメイト同士の力関係には、大きな不均衡がある

中学生活を振り返ると、いつも心が沈む。「まい」と同様に、私も中学の空間に馴染むことができなかったからだ。中学入学と同時に、友だちの多くは私のもとを離れてしまった。原因は複数あるだろうが、一番の要因はクラスにおける「階級」ではないだろうか。

人口に膾炙してから久しい、いわゆる「スクールカースト」が示すように、中学のクラスメイト同士の力関係には、大きな不均衡がある。運動ができて、明るくて、モテた私の旧友は「上」の階層へ。運動神経が悪くて、地味で、要領が悪かった私は「下」の階層へ。かつての友情も、中学を舞台にすれば「身分違いの」友情へと成り下がってしまった。
学校の外では昔のように歓談するも、一歩学校の敷地内に入れば、一緒に過ごすことは許されなかった。間違っても話しかけてはならない。まるで「ロミオとジュリエット」のような友情である。
中学に進学し、私は不文律に従わねばならないことを学んだ。当時、それを「理不尽」と表現するほどの気骨は、私にはなかった。降りかかる理不尽を体いっぱいに受け止めていた。そんな時にこの本と出会った。

「おばあちゃん」の家を知り、世界が中学の教室だけではないと知る

「おばあちゃん」が「まい」に教えたシロクマの比喩は、あまりにも有名である。シロクマがハワイではなく、北極で暮らして何が悪いのだ、という比喩。この比喩がしばしば話題になるのは、投げ込まれた世界に居心地の悪さを覚える人の、自尊心を包み込むからであろう。私もこの比喩に救われた。
真正面から自己を否定された中学という場所を「世界」と見なせば、世界のどこにも居場所はない。南国ハワイで生き延びられないシロクマのように。
しかし、世界はハワイのような南国ばかりではない。北極という場所も、しっかり存在しているのである。

「まい」は、「おばあちゃん」の家を知ることで、世界が中学の教室だけではないことを知る。「まい」が、おばあちゃんの「家」という空間でできたのは、箱庭を覗き込むかのように世界を俯瞰することができたからである。

学校に押し込まれたティーンエージャーが世界を俯瞰するのは難しい。クラスでの立ち位置を自分の価値に置き換えて、絶望するティーンエージャーも多いはずである。

這いつくばって中学という地平に立っていた私は、この物語に出会うまで、視点を変えて世界を見ることなんてできなかった。
どこに行っても、私は疎まれるのだろう。どうして私は、こんなに運動神経が悪いんだろう、どうして容姿に恵まれなかったのだろう……と自己憐憫に歯止めをかけることすら叶わなかった。

世界は単一のフィールドではない。私の輝けるフィールドもあるはず

しかし、この物語はちょっと視点をずらして世の中を見ることを教えてくれた。シロクマの比喩がそれを示唆するように、世界は単一のフィールドではない。きっと、私の輝けるフィールドも見つけられるはずだ、と。
私は「まい」のおばあちゃんの言葉を盾に、悪意のある言葉から守られるようになった。クラスメイトから浴びせられた悪口に対するアンサー・ソングならぬ、アンサー短編も書いた。それは、『教室は箱庭』という小説だった。あくまで教室は、広大な世界の箱庭に過ぎない。そう思えただけでも、私は強くなれたのだ。

ちなみに、小説を書いたノートは本棚の奥底に眠らせてある。きっと、読み返したら青臭い記述に恥ずかしくなってしまうから。それと、辛い出来事に出くわした時の糧にしたい、という思いもある。艱難辛苦に向かった時の記録こそ「玉」だから。