先月、一人の友人が亡くなった。エッセイに書くには早すぎるだろうか。他の友人にこのことを知られたら、不快な気持ちにさせてしまうかもしれない。それとも、不謹慎だと言って怒られてしまうかな。
みんな、ごめんなさい。それでも書きたい、ここ数日の私の思いを。
高校の知り合いだった彼の死。SNSでは毎日楽しく過ごしているように見えた
ある日の夜23時過ぎ。横で寝ていたはずの双子の姉が突然飛び起き、「えっ」とだけ口にした。
「どしたの?」とスマホをいじりながら軽い気持ちで聞いた私に、姉はただ一言呟いた。
「Kが亡くなった」
高校の頃の、双子の姉の同級生であり、私にとっては同窓生の男の子の名前だった。
関東に上京した地元の友達同士のLINEグループ。そこに送られてきた長々としたメッセージには、Kが数日前に亡くなったことと、上京先のKの家でお葬式をするという旨の内容が書かれていた。
10数人はいるグループだから、既読はすでに幾つもついていたはず。しかし、誰1人そこに返信する人はいなかった。
私も例外ではない。現実味のないメッセージを前に、ただただ唖然とするしかなかった。
返信を打とうにも何を返せば良いのか……言葉が見つからずに画面を見つめたまま数分が経つ。私も姉も、友人の突然の死に戸惑いを隠せないまま、その日はお互いあまり眠れなかった。
彼はいわゆる陽キャなタイプで、地元でも上京先でも友達は多いし、毎日楽しく大学生活を過ごしている雰囲気がSNSでも伝わってきていた。
けれど、所詮はSNS。本当のことなど写していなかった。彼が自死してしまうほど思い詰めていたなんて、知らなかった。
私も苦しい自分を隠していた。彼も表に出さずに抱えていたのだろうか
特別親しかったわけではないけれど、地元を離れてからも関わりのあった友人として、同じように苦しい気持ちを抱えていた一人として、何かできたのではないかと考えてならない。
昨年の私が、家族や友人たちに苦しさやしんどさをひた隠しにしていたように、彼もまた、表に出さないでずっと抱え込んできたのだろうか。
死にたくなる夜があることの苦しさは私にもわかる。エゴだとは分かっていても、同じように死にたさを抱えていた者として手を差し伸べることができたのではないか、という考えが頭をよぎってばかりいる。
『死にたいけどトッポッキは食べたい』『わたしの心が傷つかないように』『頑張りすぎずに、気楽に』……。心が辛いときに買って読んでみた本を、Kに渡せる機会はなかっただろうか。
少しでも彼の話を聞いてあげられなかっただろうか。
不安や焦燥感、怖さ、葛藤……Kの内側で渦巻く澱んだ気持ちを軽くしてあげられなかっただろうか。
「人間はいつ死んでもおかしくない」「生きていれば誰かが死ぬことなんて当たり前」だなんて、そんなこと頭では分かっている。でも幾ら頭では理解していても、友人が亡くなったのはあまりにも辛く、乗り越えるなんてそう容易いことじゃない。
友人は皆、当たり前のように一緒に年齢を重ね、年老いていくものだと信じていた。地元を離れてから連絡を取らなくなってしまった友人も多いけれど、みんな健やかにこの日本や世界のどこかで、これからもそれぞれの人生を歩んでいくものだと。
だからこそ、その内の一人が亡くなった、というこの現実を受け止められずにいる。
平気なフリはしなくていい、だれでもそんな状況になりうるのだと伝えたい
数年前まで超絶ポジティブだった私ですら、昨年は希死念慮を抱えて苦しい時期があった。ふとした瞬間に「死にたい」と思ってしまう異常な状態が誰にでもなり得ることを、身を持って知っていたはずなのに。
どうにかして気づいてあげたかった。Kには生きていて欲しかった。頭に浮かぶ無数の言葉も考えも、全て私のエゴでしかないのだろう。でも、そう考えずにはいられない。
もし今Kに会えるのなら、私は本当は大丈夫じゃなかった、と正直に打ち明けるだろう。
彼が同じように心の内を吐き出せるように。
「平気なフリなんてしなくていい」
そう伝えることはもう叶わないけれど。