幼いころから、大人になるということは「特別」なことだと思っていた。
幼虫がサナギを作り、自身の体を溶かし、必要な部分だけを残して成虫になる蝶のように、子どもの私と大人の私は全然違う存在なのだ、と。そういう革命めいたことが起きて初めて人は大人になる。
そう思って子ども時代を過ごしていた。
なぜ、あんなに大人になりたかったのか。少し心当たりがある
入学式、卒業式、成人式……。時節的なイベントはたくさんあるし、中にはそれを節目として大人として生きていく人もいるのだろう。けれど、私はどうも大人になりきれる様子がない。
子どもの頃は、早く、一刻も早く大人になりたいと思っていたのに、大人に近づいていくにつれてどうやらそれも薄れてしまった。
自分自身が大人に近づいているのだから当たり前、と言われてしまえばそれもそうなのだけれど、どうしてあの頃、私はあんなにも大人になりたかったのだろうと、不思議に思えるくらいだ。
不思議に思えるくらい、と述べたのは、どうしてそんなにもはやく大人になりたかったのか少し心当たりがあったからである。
私が育った家庭は、私が小学校に上がる頃から少しずつ崩壊していった。
日に日に増えていく怒鳴り声や叩く、蹴るといった暴力。後に両親は離婚し、今は安定した生活を送ることができているので、して良かった離婚だと思う。
もう終わったことでもあるし、どうしようもないのもわかっているのだけれど、たまにふと考えることがある。もし私があの頃大人で、両親と対等に話すことが出来たら、今、どうなっていただろうか、と。
私に手を上げた彼らを、擁護するわけではないし、なかったことにすることはできない。覆水盆に返らず、だ。
けれど、彼らの話をちゃんと聴いて、ちゃんと叱ってくれる人があのときもしいたら。いまの関係性はもう少し違うものになっていたかもしれないな、とほんの少し寂しく思う。
大人とは「なる」ではなく、必要な時だけ身につける衣装のようなもの
今の私は大人として、いや人間として、幼い頃の自分に顔向けできるように生きているだろうか。これから先も生きてていけるだろうか。いまのところ正直、まだまだ100%ではないと思っている
蛹が羽化するときのように、起きると思っていた革命はこれからも起きそうにないし、私は私のまま、子どもの自分と共にあるまま大人になった。大人になることが出来てしまった。
けれど大人になってみて、きっと私の両親も、もしかしたら世の中の皆んなも、心のどこかに子どもの自分と共にあるのかもしれないと思うようになった。
「子どもの自分」とは、むしろ元々の自分の素直な姿を表している部分。大人とは、本来「なる」ものではなくて、求められる場所で、必要な時間にだけ身につける「衣装」のようなもの、と思ってもいい気さえしてきた。
結局のところ、「大人」とは一体なんなのだろう。
大人と呼ばれるような立派な年齢の方が、スーパーで理不尽に怒鳴り散らしているのをみたことがある。
子ども、と呼ばれる年齢の子が、時々ドキッとしてしまうような、的を得たことを言う。
成人していれば大人なのだろうか。
成人していなければ、大人ではないのだろうか。
いったいどちらが大人なのか、私は時々、いや割とよくわからなくなる。
「大人」の正体は、人間が作り出した理想の人間なのかもしれない
この20年と数年を生きてきてやっと、少しずつ見えてきた気がすること。
心の成熟と、体の成熟は必ずしも比例しない。心を成熟させるには、自分で考え、気づき、改革していく。そしてそれを日々の生活の中で反復し、身につけていく。小さな小さな積み重ねが必要なのだ。
「なにかを教えてもらう時には恥をかくことだ」
私の尊敬する人がそう言っていた。知らなかったことに気づいた時、一瞬は恥ずかしいかもしれないけれど、その恥の積み重ねが経験を生み成長を促す。そうして心と体の成熟のバランスを保つことができるようになり、人は大人に近づいていく。
「大人」の正体とは、社会に属するために必要な要素をたっぷり詰め込んだ、人間が作り出した理想であり、架空の、漫画に出てくるような超絶ウルトラスーパーハイスペック人間なのではないか。
これから先、私がこの世からいなくなるまでの間、私は世間から大人として扱われ、評価されていくことだろう。
けれど大人として生きる以前に、人間としてどう生きていきたいか、どう生きていけば、自分自身を大切にして生きることができるのか。「大人」という衣装を適切に、スマートに着こなせる人間になるために考え、自分を磨いていこうと思う。
もしも、大人で「いる」こと、「なる」ことが辛くて窮屈に感じている人がいるとしたら、いま一度、あなたの「子ども」な部分に目を向け、耳を傾けてほしい。もしかしたらそれは排除するべき対象ではなく、子どもが話を聞いてほしくて泣き喚くように、本来の素直なあなたが発しているSOSかもしれないから。
大人とは無理に「なる」ものではなく、軽やかに、そして緩やかに「着こなす」ものだと思うから。