「大人になる」というのは、さなぎが蝶に孵るように、子どもとは全く別のものになることだと思っていた。そして大人は、賢くてなんでも知っているし、なんでも出来るし、お金は持ってるし、子どもの幼さからくる未熟な行動も許してくれるものだと思っていた。
でも私は、そんな期待がたくさん裏切られてきた。
同居の親戚に感じるストレス。いつしか、全てを諦められるように…
両親と兄弟に恵まれたことは、自信を持って言うことができる。しかし親戚に恵まれることはあまりなかった。最も、幼い頃の私の心を掻き回したのは、同居の祖父母と伯母と叔父だった。
なぜこんなことを言われなくてはならないのか、向けられているその感情はエゴからきているものじゃないのか、なぜ私がそれを我慢しなければならないのか、なぜ私はそれを黙って聞き流さなければならないのか。
もちろん思春期の反抗もあったし、彼らに荒々しい自分の感情をぶつけにいったこともあったけれど、彼らはそれを許してくれなかった。勇気を出して投げた石ころは、大量の刃物になって帰ってきて、私の胸にたくさんの穴を開けた。
ストレスが降りかかってくる度に、荒れた。物に当たったり、家出したり、暴れたり。ある時はスティーヴ・ジョブズが「絶叫療法」という治療法をしていたことがある、というのを本で見かけて、実際にそれを試してみた。
家に誰もいない隙に、首が筋肉痛になって声が枯れるまで大声で叫び続けた。でも自分を痛めつけたり、過剰な行動をして両親を困らせても、なんの解決にもならなかった。
本を読んでいたり、夜寝る前や、ピアノを弾いているときに、彼らの言葉が蘇ってきては、私の心をざらつかせた。無邪気な私はめげずに期待と落胆を繰り返していたけれど、やがていつの間にか全て諦められるようになった。
大人へ抱いた期待は見事に裏切られ、「そんな大人にはならない」と決意
子どもの頃想像していた大人は、どんなだったろう。自分が思い描いていた、立派な大人になれているだろうか。27年生きて、それなりに色んなことを経験して、知識や見聞を広めて、それで自分自身に思ったことは、ただ疑問だけだった。
私は大人になれているのだろうか。自分で断定するのは難しい。現代では蝶のように、「大人になる」という通過儀礼のようなものがない。成人式はあるけれど、それに出席することで大人としての責任を感じることもない。
経験を積み重ねることで、色んなことに対応できるようになってきている。しかし根本的な心は、物心ついた頃からそう変わっていないように思う。
「大人」とは「子ども」の延長線上にあって、その成熟度というのは人によって千差万別である。
幼い頃、「大人」にたくさん期待し、甘えて、許しを強いた。その期待はたくさん裏切られ、その度に傷つき、何度も「私はそんな大人にはならない」と決意した。
今になって、私を傷付けてきた大人たちが歩んできた人生や、その時の境遇を聞いて同情したり、子ども故の自分の愚行を反省することもある。しかし彼らの幼い言動を、私は許す必要はないと思うし、私はその傷を未来に残さないようにしてゆきたい。
姪に何気なく言ってしまった悲しい言葉。私が大人としてできること
二人の姪の叔母になって、私は彼女たちの「大人」になった。できれば目一杯の愛を彼女たちに注いでいきたい。
けれど先日、お転婆でイヤイヤ期に突入した一人目の姪っ子に、何気なく私が言われたら悲しくなる言葉をかけてしまった。言ってすぐに後悔した。彼女の人生は、まだまだ始まったばかりだ。
私はなぜか、未熟であるから持て余してしまっている感情や、理解できない現象に対する混乱を、なんとなく理解することができる。もちろんそれは、生まれて1年とちょっとしか経っていない彼女に理論的に説明してわからせることはできないし、それは彼女がこれから始まる長い人生の中で、一つ一つ手に入れていくものだ。
私が「大人」として、子どもたちに何が出来るだろうか。出来ることなら、危うくて儚いその「いのち」を、大切に温めていきたい。たとえ思春期や反抗期で、私を嫌いだと言っても、私は大好きでいたい。この世界で彼女たちを絶対に嫌うことのない「大人」として、そばにいたい。