私はよく泣く。堪えなきゃと思ったが最後。相手が誰であろうと、どんな場所にいようと、頬を伝って涙がこぼれてくるのだ。
嬉しくても、悲しくても流れる涙は感情的で幼稚っぽいし、何より周りを困らせてしまうのがものすごく嫌なのだ。
就活生、大学生と、肩書きひとつでラベリングされることが嫌だった
一方で、他人からは明るくて行動的で、学生には見えないしっかり者に映るらしい。
大学は地元から遠く離れた地方を選んだ。そこには学びたいことがあったし、人と同じことはしたくなかった。明るくて行動的な私は自分なりに交友関係を広げたり、しっかり者の私はプロジェクトのリーダーになったりもした。
だからこそ、大学4年生になって就活生と呼ばれることが嫌だった。でも、学生のままでいるのも嫌だった。
私はそんな肩書きひとつで表せるような、単純なものじゃない。何かラベリングされることで、自分がかき消されてしまいそうな、もう後には戻れないような、そんな気持ちが私の中にはずっとあった。
自分を表現する何かが欲しかったし、自分の存在を社会に示さないといけないのに、何をしたらいいのかわからない。する気も起きない。
そして今、私は休学という道を選んだ。大学生だけど大学生ではないような、どっちつかずで生きている。
「どうして休学したの?」。この言葉を聞くたびに胸がきゅっとなる
どっちつかずでいることは傷つくことがものすごく少ない。勝ち負けなんてないし、どちらともの良いところを吸収できる。
中学生の時だって、ひとつのグループにいるよりも複数のグループといる方が、面倒なことに巻き込まれることは圧倒的に少なかった。一方でそれは、両方にとっていい顔をしないといけない、ということでもあった。
それはじわじわと自分の内側に色が滲んでくるような感覚に近い。
「どうして休学したの?」。この言葉を聞くたびに胸がきゅっとなって、「コロナもあったし、学生のうちにやりたいことがあって」と笑顔で取り繕う。
本当にそうなの?心の中で自分に問いかける。
私はみんなが思うような、明るくてしっかり者の人間ではこれっぽっちもない。休学したのだって、本当は自分の将来を決めることが怖かっただけなのだ。私がひとりの何者かになってしまうことが、今になって猛烈に恐ろしくなったのである。
どうしてみんな、そんなに大人になりたがるのだろう。見た目は大人で中身は子どもみたいな人はたくさんいるし、制度的に必要だということはさておき、そもそも分類すること自体必要なのだろうか?私ってなんなんだろう?自分の意思と他人の意思の境界がわからなくなる。でも境界ってあるものなのだろうか。
涙は私のために流れてくれる。どっちでもない、間にいる私のために
どっちにも転がれずに、うまく表現ができなくなってしまったとき、私の顔には涙が浮かんでいる。
ああ、またやってしまった。周りの表情が一斉に変わるのがわかる。もう土に埋もれてしまいたい。
幼稚で弱々しい自分がものすごく嫌で、どうして泣くように人を作ったのか、といるかもわからない神様に怒りをぶつけたこともあった。
ある時、私はノートを開き自分の気持ちを紙に書いていた。間にいてばかりの自分をなんとかしたい。そんな思いで書いているうちに、またどっちつかずの私がたくさん溢れて、ノートにたくさんのシミをつくった。
その塩辛いシミを見て、私は思ったのである。
このシミには私の表現できなかった感情が溢れているんだ。悔しい。嬉しい。寂しい。感謝。後悔。いろいろな感情が混ざり合って、溶け込んで、言葉にならない気持ちを表現してくれている。
涙は私のために流れてくれている。どっちでもない、間にいる私のために。そう思った時、私はこの涙を少し肯定できた。
伝わる形でラベリングして社会に発信していくのが大人なのかもしれない。どっちつかずでいる癖はまだ治らないし、まだ泣いてばかりだ。
けれど、私は私として進むしかない。大人になったら泣かなくなるのかな。いや、きっと泣くんだろうな。
でも今はそれでいい。私を私たらしめるための涙だから。