小さい頃から、文章を書くことは好きだった。幼稚園児の時に初めてポエムを書き(今では家族にいじられるが)、小学生の時には読書感想文で県のコンクールで金賞を受賞した。その後も作文や小論文を書いては先生に褒められていたので、評価されるから好きになっていったのも一理あるだろう。
しかし、具体的に「なぜ好きか」は、本文を書くまで考えたことはなかった。日記を書くことが好きだったり、たまに作家気取りで小説を書いたり、趣味ではあったが感覚的なものだった。

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先日、高校生の弟に、長期休みの課題に出る読書感想文や意見文の作成を頼まれた。
つらつらと書いていくゴーストライターの私に、弟が「なんでそんなに作文が得意なの?」と聞いてきたが、はっきり「経験値」と答えた。
本をたくさん読んで、邦楽をたくさん聴いて、日本語に触れて、その分たくさん書いてアウトプットする。文章を書く技術なんて、専門のスクールにでも通っていない限り経験値でしかない。
しかし、くどいようだが私の「書くことが好き」は感覚的なものでしかない。いつの間にか好きだったことに対して、今更ちゃんと向き合ってその理由を探った。
漠然としか答えは見つからなかったが、どうやら私は、書くことで自分の本心を知ろうとしているらしい。

例えば、日記が一番わかりやすいだろう。日記を書くときは、大抵その日に何があったのかをしたためていくが、私は『この出来事を書く』というのを決めずに日記帳に向かっている。
どういうことかというと、去年ディズニーに行った日の日記には、ディズニーで何を食べたとか何に乗ったとか、メインになる出来事が何一つ書かれていなかった。代わりに、「夢の国に行くにも朝が早いと夢もへったくれもない」とか「いい大人がはしゃぐ空間を造り出した人はすごい」とか「入園の列に並びながら食べるコンビニのおにぎりが結局一番美味い」とか。
その日初めてソアリンに乗って感動したくせに、ソアリンのソの字も出てこない日記。思わず「お前はディズニーで何をしてきたんだ」と自問しそうになったが、そこに書かれていることが紛れもなくそのとき私が一番書き記したかったことなのだ。

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小説もそうだ。少し前まで、私はある界隈で二次創作としてひそかに物語を執筆していた。総文字数34,500字くらいの連載で、反響もそれなりにあった。
よくフォロワーさんから「どんなふうに物語を書いているんですか?」と問われることもあったが、書き始めは何も考えていないことが多い。キャラクターを決めて、大まかにジャンル(恋愛かミステリーか感動か)を決めたら、もう書く。だから書き始めは私もこの話がどうやって着地するのか、キャラクターが何をしゃべるのか何も知らない状態でスタートしている。そうして中盤くらいで結末が見えてきて、やっとゴールに向かうが、その時点で起承転結の起承部分が終わっていたりする。

書き始めは何を書くかなんて考えていない。このように書こう、と思うと思考に囚われて感情が表せない。そういうものは私にとって駄作になる。本文も、書き始めは自分の日記の内容を暴露する予定なんて一切なかった。書きながら自分の本心を知っていって、今は「そうか、私はこんな気持ちでいたのか」とまるで第三者のように自分を見つめている。私にとって書くとは、自分を知ることなのだ。

とはいえ、やはり書くことが好きになった経緯には、文章を書くことに対して抵抗がなくなった経験値が要因としてある。
弟よ、作文を攻略したいならバス通学の時間は寝ずに本を読み、ゲームの時間は何かしらの執筆に充てるべきだ。