私は出会った人を分析してしまう癖がある。
たとえば、男性と出会った時、デートをしてから付き合うまで、付き合ってからも逐一その人の仕草や性格、趣味や考え方、家庭環境、何から何まで観察する。そして、この人は本当に自分にふさわしいか(おこがましいにも程があるが……)を全神経を集中させて読み取ろうとする。

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なぜそんなことをし始めたのだろうと思い返してみると、過剰に男の人が寄ってきた学生時代に遡る。
ひねくれていた私は、話したこともない男の人が、私の中身を全く知らないのに、なぜ好意を感じられるのだろうと、その男性の感情が沸き立つ根源をなんとなく察し、心底嫌っていた。そして、そんな日々が続けば続く程、自分自身の存在自体が尊大だと思うようになった。
だからこそ、付き合う人は外見、中身ともに完璧な人を求めた。私は男性が自分に寄ってくるいとわしい理由をなんとなく知りながらも、鼻にかけていた。いわゆる私は天狗で、人を見下す人になっていたのだ。

そんな癖が定着し、いくつかの恋愛を経験した私に待っていたのは、本当に人のことを好きになれないという末路だった。
無駄に相手のボロ探しを見つけるのがうまくなった私にとって、相手の欠点が見える瞬間は日常にいくらでも転がっている。人との付き合いはいわば面倒くさいのが当たり前で、その欠点を見つけた時に努力出来る人が健全な関係を築ける人。
相手自身と自分の想像した理想の相手とのギャップに冷めてしまう人が健全な恋愛関係(そして人間関係)を築けるわけもなく、短期間に別れてはまた寄ってくる男性といい感じになるを繰り返し、その場限りの浅い恋愛を続けてきていた。いつも別れを切り出すのは自分だからといい気に、私にはもっと良い人に出会うべきなんだと本気で信じていた。

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そんなうぬぼれていた私にしっぺ返しがきたのは、社会人になってからだった。
仕事では男性と対等になるためには、嫌でも相手に自分という人間を判断をされる場面が出てくる。その時、私に待ちうけていたのが、自分という人間がいかに薄っぺらく、浅いかという事実だったのだ。

結論から伝えると、今まで男性から向けられる「好意」を出汁に男性との“上手な付き合い”を続けてきた私が、そういった感情なしに男性と関わった時全く太刀打ちできなかった。今まで当たり前のように人をジャッジして高飛車に生きていた私が、相手に判断をされる立場になった時、勝てないなんて思いもしてなかったのに。
無条件に人が寄ってきた学生時代、自分は価値ある人間だと過大評価をしていたからこそ気づく、どれだけ本当の意味での自分磨きを怠けていたのかを。自分の内面最悪だ、と。
あぁ心が痛む。

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飲み会でも同じだった。私はウィットを利かせた面白い話、こみ入った会話ができず、出来たことは相手を立てる接待だけだった。初対面では印象よく振る舞えようが、会えば会う程、話せば話す程、滲み出てくるボロを痛感した。そして、バカではない男性は段々と気付く、あぁこの人は空っぽなんだ、そんな冷ややかな雰囲気に、視線に耐えられなかった。

そんな飲み会が続き、ある日振り返ってみた、というより判断をしてみた。自分という人間を。
たとえば趣味。本、映画、温泉、食事……あらゆる娯楽が好きな自分を気に入りつつも、誰かに深くを話せたことはあっただろうか。その「好き」の深さを問われた時、私はただ雰囲気を好きなだけではないだろうかとふいに感じた。
自分の個性を貫いて突き抜けた存在になれることもなければ、相手に花を持たせられるほどの人間力もない。自分のポリシーもないことを隠すために、相手の言葉にただ相槌をして、さも分かっている風のコミュニケーションだけの薄っぺらい人、それが私だった。

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自信が天から地に落ちた今、私は私自身を嫌いになる前に、変わらなければならないことを感じる。
きっと、時の流れは黙っているだけの人形に価値がないことを深々と感じさせるだろう。自分の崩れてしまった内面を、浅さを、短所を、いい加減何とかしなければならない。きっと思っているよりも甘くない。
だからこそ、私はもっと痛い目に合わなければならないのかもしれない、行動をして失敗をして、学ばなければならないのかもしれない。
それならば、出来ることはひとつ。卑屈になるのではなく、地道に磨いていくだけだ。

相手から判断をされる立場になった私は気づく。
あぁ、やっと、相手よりも自己を見つめ直すことができた、と。私の人生これからだ、と。