認知症のおばあちゃんに会いに行った。
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今は施設で過ごしている。久しぶりに会ったおばあちゃんは、きっと誰だか分かっていないわたしに、「遊びにおいでよ」って、たくさんおもてなしの言葉をかけて迎え入れてくれた。話していると、昔の記憶と今の記憶がごちゃまぜになっている。もう無くなった昔の親戚も、今生きているわたしたちも同じ空間に存在している。おばあちゃんの世界で、みんな一緒に生きて、交わっている。
おばあちゃんは時折、少し悲しそうな顔をしながら、元気に、明るく話す。きっと自分が何かを忘れかけていっていることを分かっている。わたしもおばあちゃんと同じように、おばあちゃんの感じている空間の中に存在できるように話す。そしたら、自分が誰で、どこで何をしている人かなんて、どうでもよくなってきた。そして、そんなことをおばあちゃんが忘れたって、どうでもよいと思った。
今、手をさすりあって、「ああ、会えてよかったなあ。こうやってにこにことお互いの共通する部分を感じながら話せている今は、しあわせだなあ」っていう思い以上の大切なことってあるだろうかと思った。
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今に強く光が当たっていた。日常でこの感覚を忘れていたなと思った。最近読んだ本で、人は起きてる時間の半分以上を、その時にしている行為以外の何かを考えることに費やしているという。人は過去や未来について考え、計画をたて、予測することばかりが先行していっている気がする。人と会う時も、この人がどこで何をしている人なのか、いろんな情報が分かっている状態で会う。なんとなく結末も予測しながら、話している。「わたし」という社会的な存在を強く放ちながら、生活する日常。
自分が誰か、相手が何を知っているか、そんなことをとっぱらって話した、おばあちゃんとの感覚の話は、感情が浮きだってきて、ほんとうに今だけの感情だけだった。
名字も名前も、年齢も、肩書きも、何なんだろう?何を示しているんだろう?
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ある哲学者が、「私とは考える精神であって、断じて身体ではない。『私が魂』なのではなく『私の魂』という言い方もなく、『魂の私』というのが近いのかもしれない」というようなことを言っていた。その人は癌により、46歳で亡くなっているが、一切死を恐れていなかった。
この、「魂の私」っていう言葉がすごく好き。
魂という大きなひとつの塊が、分裂していって、一人ひとりの「わたし」であって、元はひとつなんだよ。みんなはわたし。わたしはみんな。その人は、だから死んでも怖くないって。ものすごい精神だと思う。
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少しでも生きている私たちが、そんな意識でいられたら。そんな社会になったら。名字を変えるとか、姓で縛られるとか、そういうことで苦しむ人たちが、減るんじゃないかな。特に名字は、時間軸も出来上がる。その人の生まれ、先祖、地域、連綿と受け継がれてきた何か。情報が多く、名字を呼ばれるたび、その人であろうと無意識のうちに身構えてしまっていないだろうか?
他人、誰か、どこかの人。姓によって区切られてない、みんなわたしで、わたしはみんな。傷ついたり、苦しくなったり、涙か出たり、怒りを覚えたりするのも、他人ではなく、わたし。わたしたち。
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情報に自分を放り込んでいるせいで、自分と他人を分離しすぎている。みんなはわたしという意識は、おばあちゃんと話した日の感覚に似ている。ただ、今だけを味わう。