名字を変えるということは、私にとって「自分が他の誰かのモノになる」という感覚に近い。
◎ ◎
私の名字はどちらかというと珍しい方で、小学生の頃はそれがちょっぴり恥ずかしくて、人にからかわれたらどうしようと不安に思っていた。
だけれど珍しい名字であることで人に覚えてもらいやすかったり、誰とも被らないという特別感もあって、不安な気持ちと同時に誇らしさもあった。
そんな特別な名字であることが嬉しくて、年を重ねるにつれて人に名前よりも名字で呼ばれることに喜びを感じるようになっていた。
名字を人から呼ばれるたびに心が満たされるようで、私はいつの間にか自分の名字を宝物のように思い始めた。
◎ ◎
名字というのは、人が生まれた瞬間に与えられる人生の器のようなもので、そこに自分の人生でのさまざまな経験や思い出が詰め込まれるものだと考えている。
私がこの名字であったからこそ、体験できたことや経験したことがたくさんある。
小学校時代、母がPTAの役員をやっていたことで、自分の学年以外の先生に私の存在を知ってもらい気にかけてくれた。
中学時代、生徒会の一人として人前に立つことが多かったが、他の人に比べて名字を覚えてもらいやすく、下級生が私によく声をかけてくれた。
高校時代、大人数が所属していた演劇部に入っていたが、あまり関わりのない上級生にも覚えてもらえた。
大学時代、珍しい名字であることに興味をもってもらえて、教授から親しみを込めて話しかけていただいた。
◎ ◎
そして社会人となった今、珍しい名字のおかげで人とのコミュニケーションには困らないだけでなく、素敵な名字だと褒められることも多い。
これらの経験は、私が今の名字であったからこそ経験できたことで、唯一無二のものである。
だからこそ名字を変えるということは、自分ではない別の誰かの器の中に入るようで少し嫌な感じがする。
今まで詰め込んできた私の名字の器ごと、別の誰かに飲み込まれてしまうような気がするのだ。
まるで自分がわたし以外の「誰かのモノ」になるようで、それがものすごく不愉快なのだ。
◎ ◎
たとえその相手が、自分の愛する相手であったとしても例外ではない。
今まで自分の名字の器の中に詰め込んできたものをなかったことにして、私ではない他の人のモノになるなんて、到底受け入れられようもない。
名字は私にとって「アイデンティティ」である。
だからこそ、例え愛する人と人生をともにするためであったとしても、名字を変えることは絶対に嫌なのだ。
そもそもどうして日本では、夫婦別姓が認められていないのかが不思議でならない。
それぞれの名字に詰め込まれた思い出によって作られたアイデンティティを、一生を通して大切にしていくことが私にとっては望ましい。
結婚をしたとしても、お互いにそれぞれの名字という名の器に、この先も人生を詰め込んでいけばいいのではないかと思う。
相手のモノになんてならなくてもいいじゃないか。
◎ ◎
結婚という新しい経験をするからといって、私は誰のモノにもなりたくない。
私が名字を変えたくないというのは、もちろん自分の名字が好きで気に入っているという理由もある。
だけれども、それよりも何より変えたくないと思う理由は、この先もずっと自分の名字の器にたくさんの思い出を詰め込みたいからだ。
わたしは誰のモノでもない。
わたしは私だけのものなのだから。ただそれだけである。
◎ ◎
名字はわたしを私としてこの世界に表す、ただ一つの存在証明なのだ。
だから私はこの先もずっと、自分の名字を変えることはないと思う。