名字とは、本当に不思議な存在だと思う。一生のうちに一回も変わらない人もいれば、何度も変わる人がいる。引っ越しをして住所が変わるのと似たような感覚だ。
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名前と違って少しまじめな印象で、少し近寄りがたい。私にとってはそんな存在である。基本名字は家族という単位でくくられる。その中で個を表すために名前を使われる。
名字は生まれた時から決まっており、一種の運命みたいなものだ。そこになんだか堅苦しさを感じてしまう。
新しく生まれてくる我が子のことを思い、両親の願いや希望を託して決められる名前。生まれてから授かるのが名前。
反対に、遠い遠い過去からずっと受け継がれてきているのが名字。もう生まれる前から既に授けられているのが名字。
名前を未来とするなら、名字は過去といったところだろうか。
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私はこれまでの人生で二回名字が変わる経験をした。つまり、三個の名字を経験したことになる。これが多いのか少ないのか分からないし、確認しようとも思わない。多ければ何か貰えるわけでもなく、自慢できることでもないと思っている。友人や知人との話題で上がることもそんなにない。
よっぽど珍しい名字の人がいれば話題として取り上げられることもあるだろうか。
誰しも必ずしも持っているはずなのに、当たり前すぎて忘れられているように思う。
名字が変わって得るものはなんだろう。自分が自分じゃないような、なんとも言い難い絶妙な違和感や、住民票や戸籍謄本などの文字数くらいだろうか。
反対に失うものは、変更手続きにとられる時間である。
人生にターニングポイントというものがある。しかし私の経験上、そこに名字が変わることは全く関係ないようだ。呼び方という自分の外側が変化しても内側が変化することはない。大きな変化なのか小さな変化なのか分からなくなる。
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名字が変わる感覚は一体どのような感覚なのだろうか。私の場合は、こんな感じだ。
今まで生きてきた中で当たり前に一緒に過ごしていた、特に仲が良いわけでもなく気が付くとそこにいるような存在。そいつが突然姿を消す。気が付くと新しいやつにすり替わっている。そこに痛みも悲しみも伴わない。別に会いたいなと思うことはないが、時々ふと思い出して懐かしくなる。
新しい名字の存在に関しては、初めて対峙した瞬間にはもう「自分」の一部なのである。顔を合わせたことはなかったはずなのに、互いに人見知りなどもしない。とても不思議な存在だ。
名字が変わって一番しっくりくる感情は困惑だ、と私は思う。
喜びでも悲しみでもない。どう表していいのか分からない複雑な感情を抱く。困惑は時が経つと次第に薄れていく。ゆっくりとゆっくりと、私に馴染んでくるのだ。馴染んでいく工程に対して、特に嫌悪感もない。喜びも感じない。そんなものだろうか。
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私が名字に対して感じることを書いてきたが、果たしてこの感覚は正常なのだろうか。ほかの人はどう感じるのだろうか。
これからの人生、また名字が変わる可能性も残っている。その時に私は何を感じるのだろうか。
私は名字を通して、不確かな未来について思いを馳せている。変わらないと思っていたものもいつかは変わるかもしれない。常に側にいたものが、突然いなくなるかもしれない。
変化を恐れと捉えるのか、悲しみと捉えるのか、はたまた喜びと捉えるのか…
私は、その時に得た感情を大切にできる自分でありたいと思う。