学校という社会は脅威そのもので、試練と修行の場だった。いつも細くて、周囲の視線が怖くて、一人ぼっちで投げ出されているような感覚が常にあった。
教室で席についていること、指名されること、発表や教科書の朗読、給食の時間、あらゆることにビクビク、おどおど、ピリピリしながら必死で耐えていた。
それでも周囲には決して気付かれないように、ガチガチに心を固めて周到に自分をガードした。先生や同級生からは優等生に見られ、そこそこ目立つ女子の仮面をかぶり、しっかり者の鎧をまとって弱みを見せなかった。
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小学5年の時、「両想い」と囃し立てられていた男子と学級委員に祀り上げられた。新しい担任は感情の起伏の激しい女性教諭で、何かというと学級委員である私に激しい𠮟責や罵声がとんだ。
「学級委員は何やってるの!」「あんたなんか死んじゃえ!」
怒気をはらんだヒステリックな声、容赦なく人を傷つける言葉、冷たく尖った表情、すべてに恐れおののいた。毎朝、教諭が教室に来るまでの時間、心臓が飛び出しそうな緊張と恐怖で、胃がギリギリと締め付けられるようだった。
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針のむしろにいるような半年間。そんな思いをしながらも、苦しい胸中を誰かに打ち明けたことはなく、親でさえ味方になってくれるとは思わなかった。泣き伏す弱さも幼稚さもなく、逃げ出す勇気も子供らしさもなかった。「楽に死ぬ方法」を秘かに想像したこともあるが、当時の小学生には遠い絵空事だった。
名字を呼ばれることに嫌悪と苦痛を感じるようになったのは、おそらくこの経験からだろう。そうした感覚は長く私の中に居座った。
結婚して姓が変わったとき初めて、名字からの解放と自由と安心感を味わった。矢面に立たされることなく、夫の姓という衝立に守られているようで、安全圏にいられることが嬉しかった。
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私個人としては、深く考える機会も必要もなく過ぎてしまった「夫婦別姓問題」は、「女性の肩書」に通じるものがあると思う。
女性は結婚すると「○○さんの奥さん」、子供が出来ると「○○ちゃんのママ」になる。「一個人として認められたい」「名前を呼んで欲しい」といった憂いの胸中を、人生相談等で目にすることも少なくない。
結婚当時、夫の姓で呼ばれることに幸せを感じていた。既婚者になった優越感も大きかったが、何よりも隠れ蓑を得たような安堵感が強かった。
子供を授かって「○○ちゃんのママ」という肩書も加わった。「自分自身として見てもらえない」という不満の声もあるようだが、専業主婦にとって、これほど心地良い肩書は無いだろう。地域社会においては身元が証明されたような、安全保障つきの身分だと思う。
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「妻」「母」を隠れ蓑にしてきたせいか、子供が独立した直後は、宙ぶらりんで心もとない不安に付きまとわれていた。自分の足場を見つけ、踏み固める努力は、姓に関係なく大切だと痛感した。
余談だが、昔読んだ少女マンガに、「私が離婚したのは、××(新姓)より○○(旧姓)のほうが名前に似合っていたからよ」という言い回しがあった。なぜか記憶に残っている印象的なセリフで、ふと自分の場合に置き換えた。私は夫の名字が、自分の旧姓よりずっと気に入っている。名前としっくりフィットするし音感もいい。字面も格好がつけやすく書きやすい。
訳あって毛嫌いした旧姓は、有名な芸能人の名字と同じなので、おかげさまで昔よりは馴染みやすく、とっつきやすくもなった。両親が亡くなり、この名字を継いでいるのは弟と、弟の息子である甥のみになった。今更ながら親しみと愛着も湧き始めているが、早晩いつかは消え去る運命にある。名字は私にとって、そんなドライな位置づけの「肩書」に過ぎない。