自分の名字を守ったわたしは、夫が姓を名乗るたびにやるせなくなる

「はい、2名で。Bと申します。電話番号は……」
電話を切った夫が、「予約とれたよ」と言った。わたしはちょっと苦いような気持ちでうなずく。
Bは彼の旧姓だった。
わたしの出生名は名字もファーストネームも滅多に人とかぶらない珍しい名前で、名刺交換をすれば必ずと言っていいほど「きれいなお名前ですね」と褒められた。わたしはそんな自分の名前を心から気に入っていた。また、下の名前は姓から連想してつけられており、この名前は上下セットで完璧に成り立っている、という感覚も強かった。
だから、変えたくなかった。たとえ世界一好きな相手の名字に、であっても。
婚約するとき、わたしは彼に相談した。わたしは、どうしても名字を変えたくない。だけど、その権利は当然あなたにも同じように存在する。だから、もしあなたもいまの姓がよかったら、事実婚にするのはどうだろう。
重々しく提案したわたしとは裏腹に、彼の答えは軽快だった。
「俺はこだわりないからまいちゃんの名字でいいよ! 名前を変えられる機会なんて、人生にそうないじゃん!」
「え、いいの? ほんとに?」
わたしは拍子抜けした。彼いわく、下の名前は自分のためだけにつけられた大切なものだから変えたくないけれど、姓はたまたま生まれた家が名乗っていただけなのでどうでもいいそうだ。ほんとにいいの?と何度も念を押しながら、わたしは2つのことを申し出た。
①結婚に際しての氏名変更の手続きには、すべてわたしも付き添うこと。
②結婚後に彼の気が変わって、やっぱり元の姓がいいとなった場合は、すぐに相談し合うこと。
こうしてわたしたちは、2023年現在日本で5%しかいない、「妻側の姓を選択した夫婦」になった。
結婚の報告をすると、結構な確率で「新しい名字はなにになるの?」と訊かれた。意外なことに、高年齢層の方だけでなく、わたしと同年代である20〜30代の友人からもよく質問された。
わたしが「変わらないよ、夫がわたしの名字にしてくれたから」と答えると、「婿養子ってこと?」と重ねて尋ねられることもあった。
妻が夫の名字にするのを嫁入り、夫が妻の名字にするのを婿入りと呼ぶ、という意味では「婿」ではあるものの、わたしの実家と夫が養子縁組をしているわけではないので「婿養子」ではない。でもそんなことを説明するのも面倒だった。そもそも嫁入りにしても婿入りにしても、相手の名字にしただけなのに「その家に入った」とされるのも違和感があった。お互いの家が合わさって大きな家族になった、というのがわたしたちの認識だった。
子どものころ、「結婚したら女の人は名字を変えなきゃいけないんでしょ? それなら結婚したくないなぁ」と言うわたしに、両親はいつも言っていた。
「まいちゃんが大人になるころには、夫婦別姓の世の中になっているから心配ないよ」
だけど、この国ではまだ、その制度は実現していない。
そして、なぜか95%の確率で女性側が長年連れ添った自分の名前の半分を男性側に譲っている。
名字の選択を譲ってくれたことを、わたしは夫に生涯感謝しつづけるだろう。でも、それは「男性なのに名字を譲ってくれたこと」に対してではない。性別に関わらず、30年大切にしていた自分の名前の半分を、わたしとの法律婚のために手放してくれたこと、に対しての感謝だ。
それでも、ときどき小さく傷ついてしまう。役所で彼が新しい姓で呼ばれるとき、新しい姓になった彼の名が記された郵便物が届いたとき、彼が周囲の人に姓が変わったことを報告しているとき。わたしがしたかったのは自分の名前を変えないことであって、彼の名前を奪うことではなかったのにな、となんだかやるせなくなることがある。
「はい、2名で。Bと申します。電話番号は……」
いくらこだわりがないとは言っても、生まれたときから使っている名前のほうに愛着があるのは当然だろう。飲食店の予約のために夫が旧姓を名乗るだけで、わたしはまた申し訳ない気持ちがぶり返してしまう。
「あ、言い慣れてるからそっちを言っただけだよ」と彼は笑う。たしかにそうなのだと思う。それに、彼の旧姓は一発で認識されるのに対し、わたしの姓は高確率で聞き返され、なかなか伝わらないことが多い。なんならわたしも結婚前は、彼と2人の食事のときには聞き取られやすい彼の姓を使うこともあった。
「本当に、やっぱり戻したくなったらいつでも言ってね」
また念を押してしまう。彼がそれを申し出ることはたぶんない気がするけれど、それでも。わたしは一生彼に感謝しながら、同時に一生気を遣いつづけるだろう。
選択的夫婦別姓が実現してくれればなぁ、と何度となくくり返してきたため息を、また吐き出す。
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