私が、24年間連れ添った名字とお別れしたのは3年と少し前のことだ。役所で1枚の紙を提出すると、窓口の人が「これで今から新しい名字を名乗っていただけます」と言ったが、あまりピンと来なかったことを覚えている。

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その日のうちに免許証や銀行口座の名前を変えに行ったが、それでもやっぱり実感はそれほどなかった。違和感はちょっとある。でも、大好きな人の名字を名乗ることができるようになったことはとても嬉しかった。

入籍後、すぐに職場で呼び名が変わると、むず痒いような照れくさいような感じがした。呼ばれ方が変わった。シフト表の名前が変わった。書類に押印する印鑑を新しくした。電話に出る時に名乗る名字が変わった。時々間違えそうになるのを飲み込む時間ですら喜びを感じた。そうして過ごしていくうちに、新しい名字がすらすらと口から出てくるようになった。慣れとは不思議なものである。1ヶ月もするとしっくりくるようになって、違和感を感じることも無くなった。

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それから2年が経ち、すっかり新しい名字が馴染んだ頃、久しぶりに旧姓の活躍する場面に出くわした。結婚式である。打ち合わせの度に見聞きするその名前に懐かしい気持ちが込み上げてきたのを思い出す。そのせいか、職場で名前を書き間違えたことがある。人間の脳は随分と単純だ。

ある日、いつものように挙式の打ち合わせをしていると、当日の流れを確認することがあった。チャペルでのウェディングを予定していた私たちは、指輪の交換をして、誓いのキスをして、結婚証明書に名前を書く。「奥様のサインは旧姓でお願いします。きっと、最後に旧姓を書く機会になると思うので、ゆっくり落ち着いて書いてくださいね」なるほど、と思った。そうか、これが最後か。なんとなく少し寂しい気持ちになった。

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結婚式当日。両家の名前が並んでいるのを目ににすると、わくわくした気持ちでいっぱいになった。緊張しながらも笑顔でバージンロードを歩く。リハーサル通りに指輪を交換して、誓いのキスをした。とうとうやってきた署名の場面では、綺麗に書こうという気持ちが先走って逆にバランスが崩れた。叶うならもう一度書き直したい。そんなことを考えたが、「これが最後」とは思うこともなく、つつがなく挙式は終わった。ふわふわとした夢心地のまま披露宴が始まる。喜びや楽しさでいっぱいの中、宴は進み、友人のスピーチがはじまった。そしてここで私はまた、あの寂しさともう一度出会うことになる。

友人は中学生の頃からの付き合いだった。その頃の私のあだ名は名字をもじったもので、濁音の入ったそれを私はあまり気に入ってはいなかった。だってかわいくない。だから、かわいい愛称で呼ばれる子が羨ましかった。でも別に自分のあだ名を否定することなかったし、受け入れて、当たり前のものとして過ごしていた。友人も、私をあだ名で呼ぶうちの1人だった。学生時代のエピソードを交えたスピーチの中で、友人が当時のように私を呼んだ。その時、いつも呼ばれていたそのあだ名が、すごく特別なもののように聞こえた。あの頃の空気感や感情が、蘇ってくるような。そこでようやく、私は自分の名字が変わったことを実感したのだと思う。

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結婚式の後も、変わらず友人は私のことを昔のあだ名で呼び続ける。名字が変わっても、私の本質は変わらない。そう言ってくれているようで嬉しくなった。あまり好きでなかったあだ名のことがちょっぴり愛しく思える。心が広くなったのかもしれない。

昔の名前とはお別れしたと思っていたが、多分きっとそうではなくて、ただ、少し距離ができただけ。これから先、昔の名字で過ごした時間が、新しい名字で過ごす時間に追い越される日がきたとしても、思い出せばいつでもその距離は埋められる気がする。名字が変わっても私は私。名前は私を構成する一部で、全てではない。でもやっぱりなんだかんだでちょっと寂しい気はする。名字が変わって3年が過ぎてようやく感じた旧姓への愛着。
ああ、私、あの名字が好きだ。

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名字が変わって思うこと。
いつか、いま目の前で寝ている娘も、私のように名字が変わる日がくるのだろうか。この子も、私のように旧姓を愛おしく感じたり、家族や友だちと過ごした々を思い返すのだろうか。いつかくるその日を思いながら、新しい名字と新しい家族がもたらしくれた幸せを噛み締めて過ごそう。