名字に無関心な私。せめて権利を主張する人の足枷にはならないように

「選択的夫婦別姓」が選挙や裁判官の国民審査等で注目されるようになったのは、5年くらい前からだっただろうか。
注目され始めてから長いこと経っているはずなのに、私は未だに選択的夫婦別姓がどんな人に求められているのかよくわかっていない。いや、なんとなく、自分の名字を変えたくないとか、どちらかの名字を選ぶことに違和感があるとか、そういう人がいることはわかっている。わかっているのだが、腹落ちしていない感じがする。わかるけどわからない感覚だと思ってしまう。
通っていた大学に女性の教授がいた。その方は結婚していたが、名字を変えて論文を出すと今までの研究と紐づかなくなってしまうので、仕事上は旧姓を使っているそうだ。今まで2回転職して3社経験してきたが、どの会社も旧姓を選べる制度があって、旧姓で働き続けている女性が多くいた。名字を変えても旧姓を使う制度はいくらでもあるじゃないかと思ってしまうのだが、そういう問題ではないのだろうか。
私の本名の名字は日本でめちゃくちゃ人口が多い。どれくらい多いかというと、40人学級で同じ名字の人が3人在籍しているくらいだ。その上、下の名前も難読で大体の人は読めない。名字では区別がつかず、名前は解読不能。こんなに困った氏名はない。名字なんかいくらでも変わっていい。あわよくばもう少し人口の少ない名字でお願いしたい。こんな考えを持ってしまっているから腹落ちできないのだろう。私が理解できる点と言えば、各所への氏名変更手続きが面倒ということくらいだ。めんどくさがりには高すぎるハードルである。
かといって選択的夫婦別姓に反対かと聞かれれば別にそうではない。選択的夫婦別姓が導入されようがされまいが、今のところ私に関わってくることではなさそうだからだ。必要としている人がいるならば導入すればいい。私には何のメリットもなく、何のデメリットもない。
選択的夫婦別姓を必要としている人はどんな人なのか、という話をしてきたが、それと同じくらい選択的夫婦別姓に反対している人がどんな人なのかにも興味がある。現状の制度を何としても変えたくない人なのか、子供の名字をどうするのかという点を懸念している人なのか、こちらの方が想像しづらいところがある。
今私が思っていることとしては、この名字の問題というのは同性婚を認めるか認めないかに近いなということくらいだ。同性婚が認められようが認められなかろうが、私には何のメリットもなく何のデメリットもない。必要な人がいるなら導入すればいい。
すごく、すごく冷めていて、すごく冷たい人間で、こういう人間がいるから何も変わらないのかと思うこともある。私は障害者手帳を持っている身分だが、これが障害者の人権に関わることだったらもっと深く考えただろう。権利を主張しただろう。そして障害を持たない人たちはきっと無関心だ。結局自分に関係なければ人は無関心。そんなもんだろう。だからせめて権利を主張する人の足枷にはならないでおこうと思う。
「どっちでもいいよ」
一番めんどくさい答えだと思うが、わかるけどわからないことに関しては、これが精一杯の優しさだ。
さて、私は名字を変えるタイミングがあればいつでも変える気だと話したが、そもそもそんな時が来るのだろうか?残念ながら今のところそんな予定はない。選択なんかできる立場にない。この問題の一歩「内側」に入るには、相当な時間がかかりそうである。
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