「余りもの」から「余白」へ。本名と通称のあいだで見つけたこと

「まさよ様」。本名「晶代(あきよ)」は、人生のほとんどの場面でこう呼ばれる。受付や病院、宅配や初対面の場で、私は訂正のために手を挙げる。そのたびに相手の謝る笑顔を受け取りつつ、こちらが訂正のひと手間を差し出している気がした。わずかな手間で空気がぎこちなくなる。その小さな段差を毎日またぐうち、私は自分の名前に足を取られ、声の出口が狭くなるほどの「ぎこちなさ」を内側に抱えるようになった。
追い打ちをかけたのは、親の何気ないひとことだ。「お姉ちゃんが生まれたときに考えた候補のうち、使わずに余っていた名前なのよ」。悪気はない。けれどその瞬間、器の縁がひやりと冷えた。私の頭の中では、それが「余りもの」というラベルに置き換わった。「余りもの」という言葉はふくらまない。自分の存在が、親の計画からこぼれた欠片のように思えた。通知表、卒業証書、名札。私はずっと、説明と弁明のあいだで息をしてきた。
仕事で名乗るときがいちばん困る。司会やアナウンスの現場では、最初の一言がすべてを整える。そこで名前をつまずかせたくない。私は考えた末、通称を決めた。読み間違えられない名前で名乗り、メール署名やSNS、名刺、原稿の署名まで統一した。
婚礼の開式五分前。袖で深呼吸をして、私は言う。「本日の司会を務めます、篠田あきよです」。控室でスタッフが復唱する。
「あきよさんですね」。その一往復で胸の段差が一段、音もなく消えた。声の通り道がひらき、視線も語尾も、名乗りに引っ張られるように整っていく。訂正のための余白が減ったぶん、目の前の人の呼吸を受け取りやすくなった。
とはいえ、本名を捨てたわけではない。戸籍の「晶代」には家の匂いがある。祖母がゆっくり呼ぶときの柔らかさ、姉がふと振り向くときの響き。私の内部に沈んだ土台の音だ。公では通称で整え、私では本名でくつろぐ。二つの名前は仮面ではなく、呼吸のリズムを切り替えるスイッチになった。
「余りもの」から「余白」へ——ある日、台本の余白にふと書いた。「晶は、光の粒。代は、次へ渡す」。それは、人の人生の区切りに光を当て、次へ手渡す司会という私の役目そのものだった。その瞬間、「余った名前」は別の像に変わった。余りものではない。「余白」という自由を持った名前だ。誰かの都合でこぼれた欠片ではなく、私自身の意味をあとから書き込めるスペース。残された余白が、私自身を私の手で選び直す自由をくれたのだ。
通称を装備してから、私は先回りの工夫を習慣にした。名刺の肩書の横に小さく「読み:あきよ」と添え、進行台本の頭にもふりがなを入れる。初対面では「本名は晶代、読みはあきよ。現場では『あきよ』で呼んでください」と先に置く。たったそれだけで誤読はぐっと減り、逆に覚えてもらえる率が上がった。弱点を先に差し出すと、相手は私の味方になる。名前が教えてくれたコミュニケーションのコツだ。
いま、受付で「まさよ様」と呼ばれても怖くない。笑って手を挙げ、一拍おいてから「読みはあきよです」と伝える。そこで生まれる短い会話が、かえって場をなめらかにすることも知った。名前は、私の段差であり、私のネタになった。
親の言葉も、もう刺さらない。余ったからこそ、私の手で意味を足せた。余白があったからこそ、書き込めた。軽やかに選ばれた音だったからこそ、あとから意味を編み込む余地が残っていたのかもしれない。私は二つの名前で、ひとつの呼吸になる。名乗りは今日の自分を選び直す合図。余白は私の味方だ。通称で現場に立ち、本名で帰宅して湯気を吸う。その往復のたびに、私は少しずつ強くなる。
コンプレックスは消えない。しかし、使い方を覚えたら、それはもう弱点ではない。相手の心をひらく合図に、今日の自分を整えるスイッチに、そして私の背中をそっと支える装備になった。名前の余白は、今も私を前へ送る。
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