最初に「言葉にしてみよう」と思ったとき、正直、怖かった

自分の中にある違和感や痛み、喜びや不安。それを“エッセイ”という形にして人に見せることは、まるで心の内側を差し出すような行為だった。こんなことを書いたら、「考えすぎ」と言われるんじゃないか。「社会のせいにしてる」と見られるんじゃないか。楽しかったことを話すのでさえ、自分の大切にしている好きをさらけ出すようで怖かった。そういった不安は、書き始めた後もずっとつきまとった。ただ、少なくとも今は私の知名度はほぼゼロで、”この話題に関する文章”ではなく、”私の文章”を読みたいと思ってくれる人はほとんどいない。それが私の心を少し軽くしていた。

そうして書きながら、何度も過去の自分に出会った。泣きたくても泣けなかった日。本当は言いたかったけど、言えなかった瞬間。嬉しくて仕方なかった日。一生忘れない日。それらをひとつずつ取り出して、言葉にして、紙の上に並べた。エッセイを書く度、私は私を知った。そして不思議なことに、書き終えるたび、少しだけ心を開く勇気を持てるようになった。

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書き始めて4年。やっと私はなつめとして書いた自分の文章を知人に読んでもらう勇気が出た。たった1人。でも、それは私にとっては大きなことだった。かがみよかがみやnoteでは、あくまで私はなつめだった。文章を読んでも実生活での私とリンクできる人はいない。

けれど、私を知っている人は別だった。本当はこの子こんなことを考えているんだと思われるのが怖かった。その人と、その先も知り合いでい続けるのだと思ったらもっと怖かった。けれど、蓋を開けてみればその子は、私の文章をすごいと言ってくれた。

この一言が、私の中で何かを大きく変えた。全ての人が渡井を肯定してくれるわけではないだろうし、そんなことも求めていない。でも、全てを否定されることはない。そう思えたことが私にとってはとても大きかった。それから私は、前よりも少し素直に、少し率直に、自分の思いを表現できるようになった。「こう思うのはおかしいのかな」と迷ったときも、「いや、私はこう感じた」と立ち止まって考えられるようになった。

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エッセイを書く前の私は、どこかで“いい子”でいようとしていた気がする。波風を立てず、誰からも嫌われず、常識の中に収まって生きようとしていた。でも、今は違う。
誰かにとって“私らしくない”かもしれない。誰かにとって“面倒”かもしれない。
でも、それでも私は、私の感じたことを、私の言葉で語っていいのだ。
そう思えるようになったことが、私にとっての一番の変化だ。