「結婚=出産」通念は根強い。でも産まない選択をする私も社会を支える一員

最近、昔の同僚から電話があった。急に人手が足りなくなったため、仕事を手伝ってほしいとのことだった。人手不足の理由を訊くと、その人は少し言い淀んでから告げた。「妊娠中で緊急入院することになった」と。私は快諾した。そしていざ久々に出勤してみると、依頼者は過度に気を遣ってくれる。こちらが恐縮するくらいに。
今回初めて出会う同僚とも、しだいに雑談するようになった。「お子さんは小学生くらい?」と聞かれた。「いないです」と答えると、「えー、そうなの? ごめんなさい」という反応が返ってきた。そして彼女たちは以前より優しくなった。私はいつものことなので慣れている。謝ってもらう必要もない。ただ、相手は気まずそうにした。私は仕方なく、スマホ画面の愛犬の写真を見せ、「お風呂も食事も寝るのも一緒で、溺愛してるんですよ」と、おどけてみせた。
結婚=妊娠・出産という社会通念は根強い。私は親戚が一堂に会する法事の席で、「子どもはまだか?」「子どもは出来たら産んだ方がよい」「子育てによって自分も成長できた」「結婚しておいて子どもを持とうと努力しないのはわがまま」と声を掛けられた。そういうときは、ただ、「貴重なご意見、ありがとうございます」と言うにとどめている。そういう意見もあってよい。
私はこれまで一度も、子どもを欲しいと思ったことがない。それは私の気質や成育歴や、いろんなものが複雑に絡み合っているのだろう。そういう星の下に生まれてきたものだと割り切っている。けれど、結婚してからそれを言うと、本当は欲しいのに出来ないから強がっているだけ、と捉えられることが多いことに気づいた。
最近、反出生主義という言葉を目にする。子どもは誰一人、望んで生まれてきた人はいない。親のエゴだ。生まれさえしなければ、こんなに苦しむこともなかった……。少しラディカルな考え方かもしれないが、私の考えはこれに近い。私の子どもは、私に産んでほしいと思っているか? こういう思想を持っている人は、では、子ども嫌いなのかと言うと、私の印象ではむしろ逆だ。この世に生を受けた子どもは、みんな望んで生まれてきた訳じゃない、好むと好まざるとに関わらず、いきなり人生というジェットコースターに乗せられたのだ、だからこそ、優しくしなければならない、と。
私は自分が子どもを持っていないことで、周りの子持ちの人や、小さな子どもを憎んだことは一度もない。(しかし、そのことをわざわざ言語化するのも変なので、誤解されている節もある。けれど、あえて誤解を解こうとも思わない)それどころか、妊娠出産する女性のことは、同じ女性としてフォローしたいと思っている。
子どもは社会全体で育てるものだと思っているので、児童養護施設の子どもや不登校の子どもをサポートするボランティアもしてきた。それは、自分に子どもがいないことの代償行為ではない。
ところで、先に述べた女性は、無事にお子さんを出産された。私はこのことを心から良かったと思うし、人にはそれぞれ役割分担があると思った。ところが、私の親は複雑なようだ。私は一人っ子なので、私が子どもを産まないと、孫は持てない。最近、孫の自慢をする人が多く、他人の孫などまったく興味もないそうだ。
私は反対に、友人のお子さんの話を聞くのは苦にならない。私に子どもがいないからといって、遠慮して話さない人もいるが、そんな気遣いは無用だと思っている。友人と遊ぶときに、お子さんも連れてきてほしいし、誰の産んだ子であれ、子どもはかわいい。
女性を、産んだ人/産まなかった人、と分断するのではなく、もっと連帯できたらと思う。
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