逃げるように海外に。SNSからも解放され、煩わしさがなくなった
大学1回生終わりの春休み、オーストラリアのメルボルンに短期留学に行った。これが、旅先では最大限動き楽しむ、最強の行動力を身につける最初のきっかけとなった。
ホームステイ先のホストは初めて会った日、当時19歳だった私に「娘のようね」と言い、歓迎してくれた。ホストは、休日は自分が部屋の掃除をしておくから、私にはとにかく出かけてメルボルンについてたくさん知ってほしいと言い、私はひたすら自分の足で街を歩き回った。トラムの乗り方も覚えた。
帰りが遅くなると、高級住宅街であったステイ先の周りは街灯の明かりだけになり、違う通りでも全て同じように見え、必死になって家までたどり着いた。
ちょうどその頃、楽器が大好きで入った部活で、先輩に嫌味なことを言われ、され、嫌気がさしていた時期だった。そして、逃げるように海外に旅立った。
LINEからも解放された。スマホなんてなくても生きていけるじゃない!煩わしさが一切なくなり、伸び伸びした。
朝は小鳥のさえずりで起き、授業が終わると明るいうちに帰宅し、毎日学校であったことを事細かに聞いてもらい、シェフであるホストの作ってくれたごはんを3食食べた。中でもラザニアは絶品で、毎日ごはんが楽しみで仕方なかった。
これまで抱えていた自分の悩みが、本当にちっぽけに思えた
翌年は、ドイツのフライブルクに短期留学に行った。メルボルン留学時と同様、ポケットWiFiも持っておらず、大学でのみWiFiがつながった。
ある日の放課後、友人とスイスに出かけた。パスポートも見せず電車に乗っているだけで、違う国に着いてしまうのが、最高にワクワクした。
国境を越えた途端、標識の言語が変わるのにも感動した。特急の座席がやたら心地良すぎると思っていたら、実は1等車に乗っていて追加料金を払ったのは、就職活動の最終面接でもした話。
スイス到着後、目的地までの道を尋ねるのにドイツ語で話しかけ、「地図見せて」と言われるまで地図を持っていないことに気付かなかった。街を歩いていて英語の看板を見ると、心から安心した。
ドイツとの国境近くのフランスのレストランに入った時は、英語も通じず、黒板に書かれた日替り定食だと思われるメニューを指差して注文した。
あんな奔放な旅をするのは、この先あるだろうか。
空は切れ目なく世界中つながっているけれど、地続きの国の空はなんとも広く、これまで抱えていた自分の悩みが本当にちっぽけに思えた。自分を懐深く見守ってくれ、背中を押してくれるような、そんな感じがした。
海外の友人に勇気づけられることが多々。コロナ収束で再訪を
そして思い返せば、これまで海外の友人にどれだけ元気づけられてきただろう。
日本人は、その場の空気を読み、自分の意見をはっきりと言葉にせず、ここまで言わなくてもわかってくれるだろうと、うやむやにする。また、集団行動を良しとする。
それに対し、海外の友人達は、どれだけ仲が良くても、どのような状況でも自身を最も大事にする。これで良いのだと思った。私も昔からそこまで他人の顔色を窺う方ではないが、勇気づけられるところが多々あった。
短期留学に2年続けていった後、ヨーロッパの治安が急激に悪化した。数年後、大学院の卒業旅行という名目で中欧4ヵ国を回った。
ザルツブルクでは、小さい頃から大好きでよくピアノソナタを弾いていたモーツァルトの生家を訪れ、ウィーンの教会ではレクイエムを聴いた。そして、思い残すことがない学生生活を終え、社会人生活をスタートさせた。
コロナ禍の今は、国内ひとり旅にすっかりハマり、連休があれば、予定を事前に詰めることなく、カメラを首にかけ、リュック1つで出かけている。普段スカート・パンプスばかり履いている私がズボン・運動靴を履くのは、このときくらいだ。
旅は私の見識を広めてくれ、私を強くしてくれる。対応力はもちろん、粘り強さも、一歩踏み出す勇気も。
昔、父と何度も遊んだ日本地図のパズルを全部埋め、コロナが収束すれば、国内・海外で出会った全ての友人の国に訪れる、それが私のバケットリスト。