会社員になり、二つの世界を行き来した。最初は7割が女性で構成された薬局業界という空間だ。そこでは「共感と和、微細な空気」が支配していた。私は効率と結論を求める合理的な思考を、常に抑え込まなければならなかった。頭の中では「問題や疑問をどうすれば具体的な行動に変換できる?」というロジックが止まらない。

延々と悪口や文句だけを言い続け、解決策を求めない女性の同僚たちに「で、結局どうしたいの?」と問いただした。「こうすればいいのでは?」という提案もした。すると「場を乱す不器用な人」というレッテルが貼られた。私は自分の合理性を「女性らしさを欠いた欠点」だと自己否定し、矯正すべき異物として見ていた。

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ある日、その世界が変わった。社内公募で本社への異動を勝ち取り、周囲は一転して男性ばかりになった。私の合理性は一瞬にして「武器」になった。長時間の雑談よりも、結論を導くスピード。感情論ではなく、具体的なデータに基づいた提言。私の問いは「建設的な推進力」として歓迎され、周囲からは「その考え方、男っぽくていいね!」と褒められるようになった。私はそこで初めて「矯正不要の自分」として呼吸ができた。

しかし、違和感は消えなかった。今度は「男性的」と新たなラベルを貼られたことに、静かな疑問を抱いた。なぜ私の合理的、問題解決志向、共感の強要を好まない本質は性別の枠組みでしか評価されないのだろう?女性社会では「不器用な異物」とされ、男性社会では「男っぽい」とラベルを貼られた。社会には「私は私」の居場所は用意されていなかったのだ。女性でも男性でも、どちらでもない。合理性を求めて生きる、ただの私だ。

私は自分を変えることをやめた。そして「男性的」「女性的」という、私を縛るジェンダーの分類を社会から外していくと決意した。無理をして順応するのも辞めた。今は職場の人間とは適度な距離感で付き合い、似た考えを持つ友人同士で深く付き合っている。そこにあるのは「女性特有の共感」でも、「男性特有の理論性」でもない。「本質を突き詰めたい」という純粋な考えと、互いを許容する信頼だけだ。

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私が「変わらない」と決意したのは「同調」や「分類」を拒否し、「私」という個の論理で生きる静かな宣言だ。そして「似た考えを持つ友人同士の輪」が、私の創る「社会」の新しい形だ。誰もが自分の合理性や不器用さを、性別や過去の経験で評価せず受け入れられる。たとえば誰かが悩みを持ち寄ったとき、私たちはまず「問題の核はどこ?」と笑いながら問いかけ「じゃあ、この解決策を試そう」と、即座に行動へ着地させる。共感の後に必ず「推進力」が生まれる。この効率的で前向きなコミュニケーションこそが、私の求める世界の新しい雛形だ。

鏡に映る私は、もう誰の期待も背負っていない。ラベルでは分類できない。この社会に「男性的でも、女性的でもない、ただの私」が呼吸できる場所を、静かに、確実に広げ続ける。